

おかけになった電話は現在電波の届かないところにあるか―・・・。
まただ、ほら見たことか。妻にせっつかれて連絡はしたが、相変わらず電話に出ない。いつもこれだ。どうせまた充電し忘れているんだろう。あれはそういう人間だ。
あいつは私の兄にあたる人物だ。いい年をしているのに家庭も持たず、その日暮らしな仕事をして相も変わらずぶらぶらと生きている。生存確認もかねて1年に何回かは連絡をしているのだが、大抵は連絡がつかない。今回と同じように。掛けてしばらく日がたったころにようやく折り返しの電話がかかってくる。あいつはそういういい加減なやつだ。
今回も例にもれず、3日ほどたってから聞きなれた呼出音が響いた。私達が中学生くらいの頃に流行った女性シンガーのメロディーが軽快に流れている。あの時は珍しく、あまり仲の良くない兄弟がウォークマンを貸しあってまで聞いていた。少し音のはずれたところが好きだった、思い出の曲が流れている。少しの間懐かしさで物思いにふけっていたが、相変わらず呼出音が続いている。オッといけないと、切れる前に取ろうと携帯に手を伸ばした。耳元まで持って行き、ああ通話ボタンを押していなかったなと画面を見たとき、まるで虫の羽音のような耳障りな音が響いた。ぶぶぶ。それは止まることなく鳴り続ける。ぶぶぶぶ。携帯のバイブレーションとは明らかに違う振動音に私は目をやった。手に握ったそれ、いつもと変わらない様子の携帯から音は鳴り響いていた。ボーカルの歌声がだんだんと羽音で聴き取れなくなっていく。軽快なメロディーは無数の虫の羽音に入れ替わっていく。気味の悪さを覚えながらも、私の冷静な部分は故障したんだろうとささやきかける。いつなら携帯ショップへ持っていけるだろうか、カレンダーを目端にとらえつつ手に握った携帯は依然としてなり続けている。そうだ、あいつから連絡が来たんだった。早く出ないと。指が通話ボタンを押そうとする。当たり前の行為だ。けれど押してはいけないと頭の隅で警戒音が鳴る。押すべきではないとわかっているのに指は動きを止めない。すっと画面に触れそうになった時、羽音の中に人の声が混じった。低い男の声だ。ああとかううとか不明瞭でよく聞き取れない。さすがに故障とは思えないそれに私は驚き腰を抜かしてしまった。どてんと転んだ際に携帯は床へ転がり落ち、ガツンと無機質な音がした。いまだに羽音はなり続けている。いったいいつまで続くんだ。汗が頬をつたっていった。その間にも男の声はだんだんと鮮明になっていった。うめき声は聞き取れる単語へと変わっていく。お前、お前。お前無視するなよ。お前だよ。出ろよ。聞こえてるだろ、出ろよ。電話してるだろ。出ろ。出ろ。声は止まることなく言葉を紡ぎだしている。声が鮮明になるに従い、部屋がガタガタと揺れる。飾っていた皿ががたりと大きく揺れ、ガシャンと音を立てて割れた。まるで何かが迫ってくるような前兆のような。おびえるように私は壁を背にしてへばりついた。照明がブツんと消えた。羽音が大きくなる。目の前に何かがいるような圧迫感があった。声を出したらきっと息も感じられるくらい目の前に。携帯からひときわ大きな声がした。最早何を言っているかはわからない。つんざくような叫び声。ぴきり、みしりと音が鳴ったのを耳が捉えていた。家が激しく揺れる。まともに立っていられそうもない、足がガクンとひざを折った。もう駄目だとどこかで諦めたとき、騒音の中貫くようにバキンと割れる音が響き、部屋が一気に明るくなった。床にへたり込んだ私が見たのは、無残にも割れたベランダの窓ガラスだった。破片はカーテンを引き裂いて床に突き刺さっている。一体どんな勢いで割れれば分厚いカーテンを引き裂けるというのか。目の前に広がる惨状にぞっとしたが、気づけば携帯からは何の音もしなくなっていた。
翌日、私はすぐに携帯を交換した。
しばらくしてから兄とも連絡がついたのだが、あいつは私があんな目にあった頃にちょうど携帯を失くしていたらしい。どうやら解体現場の廃墟に置き忘れたのだとか。
それを聞いてから、私は腹から声を出してくたばれと言い放ったのだった。
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