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​第1章 第1話

 

 

 

 

 これは子供の頃から言い聞かされた話。

「このお守りを肌身離さずずっと持っているんだよ。そうじゃないと、きっと、デュハウントに目をさらわれてしまうから」

 

「ねえ、『ノアの方舟』を探しているんだけど、何か知らない?」

「なにを言っているんだ、その『ノアの方舟』っていうのは神話だろう? そんなもの実在するわけがないじゃないか」

 ――「何を言っているのか、変な女もいるものだ」そうか、アタシはそう思われているのか。

「そうかあ、あんたも『本当に』知らないんだな、ありがとう」

 みんな知らないなんて言うが、ノアの方舟は本当にあったのだ、それは確かだ。そうじゃなかったら、アタシはこんな無謀なことはしないだろう。なんでアタシは夜な夜な酒場で情報収集なんて、なんで手間のかかることをしているのか。まあ、それは、なかなか決心がつかなかったものだから、街からでていなかったせいなのだ。でもこんな事をするよりも、遠くに旅に出た方が絶対いいに決まっている。でもここはアタシにとっての故郷だ。やはり居心地がよくて、出発する決意がなかなかつかないでいる。まるで根っこが生えてしまったようだな、なんて一人で笑ってしまいそうになった時、さっき話した男とは違う男が話しかけてきた。

「なんだい、お前さん『ノアの方舟』を探しているのか?」

「え? あんた、何か知っているの?」

「知っているというか、これは人伝てに聞いたものだから正しい情報かはわからない。ここからずっと先、方角でいえば南東の方か、遠くの山腹にあるという噂がある」

 ――「そして確か海も越えるはずだったか……」ふむ、彼は嘘は言っていないようだ。

「本当に⁈ それははじめて聞いたよ、教えてくれてありがとう!」

 諦めずに聞いてみるものだ。やっといい情報が手に入った。でも、ノアの方舟以外に何かもう一つ探し物があった気がするが、それがなんだったか。記憶がぼんやりしていて思いだせない。思い出せないのはもどかしいが、きっとそんなに大切なことでもなかったのかもしれない、そう思って懐かしい自分の部屋へと戻る。

 

 今日はいい情報が聞けた。そうだ、せっかくだから明日にでも出発しよう。酒場で聞き込んで一週間以上経ったか。情報が得られない方が多すぎて諦めかけていた。しかし故郷の空気に触れるのは良い。久しぶりに故郷に帰って来ただけだというのに、これほど街を出られないなんて思ってもみなかった。思っていたよりも、アタシはずっとこの街に愛着があったらしい。そんなことを考えながら、窓から故郷の星空を見上げる。今日は星が綺麗な夜だ。こんなに星が綺麗で明るいと、あの日のことを思い出さなくて済むからいい。昼間はあんなに明るく元気な街も、当然夜は冷たく静かになる。街の子供たちは随分前に眠ってしまった。深夜の、この耳がいたいくらいの静けさが心地いい。静けさに耳を澄ます。すると、ざわざわとした話し声が耳に入ってきた。なんだか向こうの家の方が急に騒がしくなったようだ。せっかくの一人の時間を邪魔された気分だ。自分で対処したほうが、きっとすぐに、気に入っているあの静寂が訪れるに決まっている。仕方がないな、と外に出て騒ぎの方へ近づいて行った。周りからは焦ったような話し声、叫び声が聞こえてきた。

「どうした? 何があった!」

「〇〇の家の子供が襲われかけたって?」

「また、あの真っ黒い『何か』か!?」

 その場にいた街の人たちが口々にそう言った。子どもを抱えて避難する人、お守りのありかを確認してしっかりと握り直す人、安全だと思われる場所に誘導する人。皆慌てて対応に追われている。

――「なんてことだ、あの真っ黒い“何か”が現れるなんて」なんだ、口で言っていることと同じ。そのままじゃないか。

皆が慌てている中、一人だけ落ち着いて見える男がいた。

――「またか……」という感情のみ。アタシは、そんな余裕そうな彼に質問した。

「ねえ、なんで皆紛らわしい言い方をするんだ?」

「お前、あの言い伝えをしらないのか? この街の生まれじゃないのかよ?」

「いや、アタシはここの生まれだよ。でも言い伝えなんていうのは全く信じていなくてね」

「はあ、お前みたいなのはこの街じゃ珍しいよ。じゃあしっかり教えてやるさ。この街には子供の目をさらう化け物がいる。その真っ黒い『何か』はコイツに弱い。コレは鉱石で出来たもんだ。だからコイツをお守りとして俺たちは持っているんだよ。お前も持ってるんじゃないのか?」

「ああ、そういわれてみれば、聞いたことがあるような気もするよ。だけど言ったろ? アタシは言い伝えなんていうのは全く信じていないから、そう言うのは持ってないんだよ」

 アタシが探すもう一つのもの、そして、その『何か』って奴の正体を思い出した。そしてあの言いつけも。――「 日が暮れたら、絶対にその名前を口にしてはいけないよ。名前を呼ぶと、君の目をさらいに来てしまうのだから」

 

 皆がその「何か」って奴に抱く感情は畏怖だ。それを見た瞬間、「心がみえた」瞬間、急に怖くなった。でも、アタシにはもうやるしかないのだろう。

「……ねえ、その『何か』っていうのはさ、『デュハウント』でしょ?」

「馬鹿野郎‼ お前、その名前を口に出すんじゃねえ!」

「見てわかんねえのか! 今は『夜』だ! 今名前を呼んだら……!」

「まっ、みんな逃げろ! コイツが名前を呼んだんだ!」

「まずい……! はやく逃げろ! 『何か』が来るぞ!」

 アタシを見た一人の男が怯えた顔で言う。

「……な、なんでお前笑っているんだ……? もしかしてわざとやったっていうのかよ! 狂ってる……!」

 そうさ、わざとだよ。街人は逃げる。逃げる。走ってどこかへ消えていく。みんなが散り散りになって帰った後、また、あの静けさが戻ってきた。大好きな静寂。しかしその静寂も長くは続かない。少し経って、周りの影が集まるように、薄らとした何かが立ち上がるようにして、『何か』はそこに現れた。周りの建物などと比べて見ると、『デュハウント』の大きさは五メートルほどだろうか。しかし上の方は影がぼやっと広がっているようで、正確な高さはわからない。分かることといえば、奴はまるで伸び縮みするリボンの影のような腕を持ち、細長い二本の足でアタシの目の前に立っていることだけだ。

 

 アタシはノアの方舟を探している冒険家だ。だが探し物はそれだけじゃない。

「デュハウント……!」

 名前を呼んだら探し物がでてくるなんて、なんて簡単なのだろう。

「アタシの目をさらって、他人の心を読めるようになんてしたのはあんただろ? じゃあ、あんたを倒せば、きっと元の生活にもどれるんだよな!」

 デュハウントと対峙した人間は、多分そう多くはないだろう。誰もこんなモノを相手に戦おうとは思わないのではないだろうか。

「ねえ、ずっと聞きたかったんだ。なぜあんたは人間を襲うんだ?」

「……」

「なんだ、目も無かったら、口もないのかよ」

 誰も、こんな得体の知れないものを相手にしない。それを分かっていて、アタシは奴に剣を振るう。きっと、こんなことをしてもきっと無駄なのだろう。だって相手は、まるで影だけ化け物なのだ。

 影に向かって剣をふっても当たらないのは当然だろう。アタシの剣は空を切る。ただ、そんな音が深夜の街に響くだけだ。剣が空を切る音、それしか聞こえないせいだろうか。

 アタシは今日何人の心を読んだのだろうか、と何故かそんなことが頭をよぎった。この変な力を私に与えたのは目の前のあの化け物だ。アタシはこんなものが欲しかったわけじゃない、こんな力無い方がよかったに決まっている。見たくないものまで見えてしまう。他人の心なんて知ったところで、アタシにはメリットなんてなかった。この力が上手く使えれば、そう思ったことは何度もあった。だが、人の心が読めるから何だと言うのだ。読めるくらいのアタシじゃ、誰も助けられない。誰も救えないんじゃないのか。自分のことでさえ手一杯で、自分のことすら救えない自分が、一体なにを救うというのだ。もし、ここで奴を倒せたとしたら、さらわれたはずのアタシの目は返ってくるのだろうか、この迷惑で不思議な力は無くなるのだろうか。

 長い間、言い伝えにもなるほど奴に苦しめられたこの街に、平和が訪れるのだろうか。

 ああ、デュハウントは一体だけなのか、複数なのかも分からないというのに。とにかく今は、目の前に立つ一体の影のことだけを考える。

 ずっと剣が空を切る音だけが聞こえる。だが次の瞬間、剣を振る腕に力が入りすぎたせいなのか、空振りばかりのために手が滑ったのか、剣が両手から離れていった。カラン、と金属が地面にあたる音が響く。思ったよりも遠くに飛んでいったようだ。近付いて剣を手に取ろうとするが、なかなか剣が掴めない。なぜ届かないのか。なぜここでそれに気づいてしまうのか。

 

 デュハウントは一歩も動いていなかった。きっと、アタシがただ目の前で、奴を目掛けて剣を振り続けていただけだったのだろう――いや、もしかしたら当たっていたのかもしれない。影を切りつけても手ごたえがないのは当然だ――そう思った。何度手を伸ばしても剣を掴めない。自分の手と目の前に落ちた剣の距離感さえも測れなくなっていた。目の前の剣すら手に取れないアタシは、きっと自分と奴の距離感すらも測れていなかったのだろう。アタシは、自分の目の違和感に、右目がほとんど見えなくなっていることにも気がつかなかったのだ。ああ、このままだときっと近いうちに、また知らない間に、アタシの目は見えなくなるのだろう、そう確信した。

 奴の手がゆっくりと伸びる。アタシはやっと掴んだ剣で振り払おうとする。剣が当たっているのかいないのかもわからない。ただ今は、感覚だけで振った。その時、奴の手が私の顔に届きそうになった。急に時間がゆっくりと流れるように感じた。そんな長い一瞬の中、少しでも何かを助けられるつもりでいた自分を、自分を救えるつもりでいた自分を恥じた。こんなことはやはり無駄だったのだ。目を一度さらわれたアタシが、もう一度奴におそわれるとなると、どうなってしまうのだろう。目だけで済むのか、済むなら遅かれ早かれもう見えなくなることは確実だ。目だけで済まなかったときはやはり、もうここまでなのだろう。まあ、生まれた町で死ねるのならこれ以上のことはないか、そう思った。

 

 しかし、時間が経つのは早い。辺りは仄明るくなって朝の空気が少しずつ入ってくる。冷たくなった街に真っ白な朝日がさす。

 

 街が明るくなるのと同時に、デュハウントは頭の方からゆっくり霧散して消えていったように見えた。そんな風に、朝が来るのと同時に消えていった。奴らは影のようなのに、影が出来る太陽のある時間には動けない。そう、陽の射さない夜にしか動けないのだ。アタシは、ギリギリのところで助かった。倒せなかった。ただ、きっと目の前で剣を振って、何の成果も得られず、何もせずに助かっただけだ。そして街は、いつものように何の変哲もない一日を始めようとしている。

 

 もうすっかり朝だ。服についた土を払いながら、アタシは生まれたての朝日を見る。それはアタシの考えも、気持ちも、全てをリセットしてくれるようだった。そういえば、昨日やっといい情報が手に入ったのだった。そうだ、今日からこの街を離れてノアの方舟探しの旅を再開しよう。そしていつの日か、きっとそれを形にしよう。アタシが見えなくなっても見た景色がいつまでも残るように。

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