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第1章 2話​

 

 

 

 

 

 俺の世界はなんて狭いのだろう。俺は、もっと遠くに行きたいと思っていた。

 

「おいリニュス! お前、この先どうするんだ?」

「俺? まだ決めてないや」

「もう皆決めてるぜ? 早いとこ決めた方がいいよ」

「そうだよなあ、分かってはいるんだけど……お前らはどうするんだっけ?」

「オレはうちの店を継ぐんだよ」

「僕は隣町で勉強しながら住みこみで働くんだ」

「おれはせっかく習った剣を活かせる道にいくよ」

「はあ、皆決めてんだよなあ」

 そんないつもどおりの帰り道。俺だけがこの先の道を決めていないだけの、いつもどおりの帰り道だ。

「じゃあな!」

「また明日!」

 他愛ない話をした後、皆と家のある方向の違う俺はここで別れる。俺の家はこの通りの先にある小さい食事屋だ。俺は皆みたいに家の仕事を継いだり、勉強しながら働いたり、剣を続けたり、そんなことはしたいと思わなかった。言ってしまえば、今習っている勉強も、剣も、全部無駄だと思っていた。これ以上続けても意味がないと。俺が剣を習う理由は何なのだろう。皆も何のために剣を持ち、振るうのか。俺たちが戦うべきものなんて何も無いのに。

 街はいつも通り賑やかだ。今日の露店は本を売っているようだ。売っているのは女性。なんだか珍しいな、そう思って見ていたら、なんだか楽し気な話し声が聞こえてきた。

「なんだあ! レーネじゃないか! 久しぶりだな、また帰ってきたのか?」

「まあね、アタシは気まぐれな冒険家だから」

「なんだか帰ってきすぎじゃあないのか? お前は旅に出ているのか、ここに住んでいるのかわかんねえな」

「そう? 気まぐれな冒険家だからってことでいいんじゃないのか?」

「まあ、そうだな。またこっちにいるうちに、うちの店に顔だせよ」

「ああ、ありがとね」

 皆が皆を思っている、そんな街が大好きだ。改めて、そんな自分の街に誇りを持つ。まあ、せっかくだから俺も寄ってみよう。

 

 流石、露店の本屋。見てみるとやはり本ばかり並んでいる。本を売りに来ているのだから当たり前のことなのだが。でもこうして本ばかり見ていると嫌になる、本なんていうのは勉強のためのものなのだ。ああ、明日も勉強をして、剣を習って、こんなことを続けないといけないのかと思った時、一冊の本が目に止まった。

「これは……なんだ? 旅行記?」

 どこかの誰かが書いた旅行記、ある探し物を続けて、自分の見た景色を書き綴ったものだ。少しだけページをめくる。俺は本の世界へ引き込まれる。この街よりずっと遠くの、俺の知らない色、空気、景色がその中に広がっているようだった。

「お、お兄さんその本気に入ったかい?」

「ああ! すごいな、これ旅行記か? そうだ、この本俺に売ってくれないか?」

「いいぞ! はいどうぞ」

「ん? 著者の名前……アンタさっきレーネって呼ばれていたよな? もしかしてこれアンタが書いた本なのか?」

「え、いや……あ、アタシじゃないよ?」

「いや、でもさっき名前呼ばれて……」

「そ、そんなことないと思うぞ!」

 いや、確かに名前を呼ばれていた。同じ名前の人物なんてそうそういないだろう。バレバレの嘘だし、これは本人だな。この人は――。

「嘘つくのが下手なんだな」

「うっ……あんたは一言多いんじゃないの?」

 まずい、思わず口に出てしまっていたようだ。これは俺の悪い癖だ。いつも友人には、お前は口が軽い、一言多いなどと怒られる。

「あっ、やべ。いやあ、よく言われるんだよなあ。……気分を悪くしたのなら謝るよ」

「全然かまわないよ。そうだ、その本買ってくれるんだろう? ぜひたくさん読んでよね」

「ああ、きっと大切にするよ」

 

 勉強なんて、本を読むのなんて嫌いだった俺が、まさか本なんてものを買うとは思わなかった。自分からこんなものを買ったのは初めてだ。でも、この本はいつも勉強として読まされていたものとは全然違って見えた。この人は文字通り海を越え、山を越え、今まで見たことのない景色を自分の目に焼き付けていったのだろう。初めて見る物の美しさ、怖さや感動や何もかもがここに詰まっていた。俺の世界はなんて狭いのだろう、俺はもっと遠くに行きたい、そう思った。珍しく本なんてものを読みふけってしまったようで、気がついたら部屋はすっかり暗くなっていた。でもこの本には、俺の知らない世界が沢山書いてあった。今日買ったばかりの本だが、こんなに気に入るとは思わなかった。もう宝物だといってもいいだろう。今日この本と出会えたことは幸せだ。そうだ、きょうはもう胸に抱いて寝よう。そうしたら、もしかしたら不安も少しは減るかもしれない。

 

 そして今日も日が暮れる。夜は不安だ。眠ることが怖い。眠って夢を見ると、絶対に怖い夢をみるから。このまま、この悪い夢の中に閉じ込められて、俺はずっと眠ったままになってしまうのではないかと思ってしまう。

 それだけじゃない、夜になると、窓の外から視線を感じる、だんだん知らないものが近付いてくるような感覚がある。俺はこんなに不安で仕方がないのに、こんなことを周りの人に言ってもみんな決まって同じ台詞で、「お守りがあるから大丈夫だ」と返すだけだ。このお守りがあったとして何になるのか。

 俺のお守りは、この首から下げているものがそうだ。これは俺の祖父からもらったもの。キラキラ光る石はただの石ではない。人魚の涙で出来ているのだ。日の光をキラキラと様々な方向に反射する綺麗なものなので、俺はとても気に入っている。祖父は俺にこれを渡したとき、「肌身離さずずっと身に着けるように」と言った。

 それには理由がある。

 この街にはある化け物についての言い伝えがあるのだ。夜になると現れ、子供の目をさらうと言われている化け物のこと。街の人達はそれを「デュハウント」と呼んでいる。日が暮れた後は、決してその名前を呼んではいけない。デュハウントは「真っ黒で、目がなくて、まるで影だけのようなもの」らしい。複数なのか、一体だけしかいないのか、誰も知らない。それが襲うのは人間だけであり、目の前に現れる時には、いつもきまって一体だけであるそうだ。それは鉱石が苦手だといわれていて、この街の人達は鉱石でできた物をお守りとして、肌身離さずずっと持ち歩くようにしている。取り憑かれた人間がどうなるのか、そこまでは俺も知らない。

 

 今日も夜が来た。不安だ。不安でたまらない。きっと今日も何かが来るのだ、小さい頃からずっとそうだ。俺がベッドに入り眠ろうとすると決まって現れる。また眠れない夜だ。怖い。怖い。ベッドに入っても、入らずに部屋の隅で毛布にくるまって震えていても、あれは

決まって現れるのだ。今日もまた眠れない夜が始まる。窓の外から視線、何かがだんだん近付いてくるような、ざわざわと夜の影が集まってくる感覚。

 

 俺はもう十八歳だ。こんな年になってまで、夜になると不安で仕方がなくて眠ることが出来ずに、奴がいなくなるまでずっと毛布にくるまって震えることしか出来ないなんて情けないとは思う。いつも奴がいなくなるまで、ずっと考え事をして気を紛らわせる。そうしないと、この恐怖に押しつぶされて、ちっぽけな俺なんか、この夜の闇の中に飲み込まれてしまいそうだから。

 今日も考える。今日買った本のことを考えよう、あれは素晴らしかった。本というものを読んで、こんなに世界が広がるとは思いもしなかった。これは、あの恐怖を紛らわせるための考え事なのだ。それだというのに、本のことを考えても、今日はなぜか窓の外にいるだろう「何か」のことが気になってしまう。胸に抱いて寝ようとしたって、このとおり、不安は少しも減りもしない。窓の外にいるだろうそれは、もしかしたらデュハウントなのではないだろうか。……でも、たしかデュハウントには目がないといわれているのではなかったか。そうだったとしたら、視線を感じるのは一体何故なのだろう。そんなもの、見て確認すればいいだけの問題だ。だが俺は絶対に窓の方は見ない、見られるわけがない。もし何かがそこに居たとしたら? もしそれが言い伝え通りのあの化け物だったとしたら? そう思うと不安で仕方がないのだ。俺は絶対に窓の方は見られるはずがないのだ。

 

 

 そしていつの日か、窓の方を見てしまった俺は、あの視線の正体に気づくだろう。窓に伸びる手、その傍らにぼうっと広がり、窓ガラスを覆うほどの巨大な影――そしてこちら側を覗く無数の目。この世の不吉をすべてつめたような、その悪夢のような光景に。

 

 

 考え事をしていたら、辺りが少しだけ明るくなってきたようだ。窓から薄く朝日が入ってくる。もう怖いものはいない、これでやっと安心して眠ることが出来る。今日も朝から教室だ、なんだと家の中が騒がしくなってきた。誰かが起こしにやってくるまでの間だけれど、唯一安心できる時間だ。ゆっくり眠ろう。起きたら剣の練習だ、勉強だ、とまたあの教室に行かないといけない。皆に会うのは楽しみだが、勉強などのことを考えると憂鬱だ。まあ、起きた後のことなんか、この先のことなんか、その時に考えればいい。でも、今日は本を胸に抱いているせいだろうか、この本を書いた人のように、俺もいつかきっと遠くに行こう、ずっと先のまだ見ぬ景色を思って眠りについた。

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