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第1章 7話​

 

 

 

 

 

 自分自身のことなんて自分が一番わかっているのだ、と誰もが思うだろう。でも、本当にそうだろうか?

 

 ここはボクのお気に入りの場所。もう何年もここに通っている。少し小高い丘の上、いつもの緑の匂いがとても優しい。ここで座って風を感じるのが好きなのだ。ここに座ると、日差しが暖かくて、風が心地よくて、ついついうたた寝してしまいそうになる。

 

 今日は珍しい、ボク以外に誰かいる。少し遠くから、歌声が聞こえてきた。なんて綺麗な歌声なのだろう。そうだ、ボクは歌を聞くのが好きだった。あれ?なんでそんなことを忘れていたのだろうか。美しい、小鳥の様な青く澄んだ歌声だ。ああ、まるで静かに微笑むように歌っていた「彼女」のような……。

「あ、れ……?」

 その歌声を聞いて、僕は「彼女」について思い出した。

 

 彼女と知り合ったのは偶然だった。三つ年上の彼女は、ボクよりもとても大人に見えて、とても綺麗だった。そんな人がボクの隣に座る。彼女の間合いは何だかとても狭かった。彼女の長い髪に触れてしまいそうなのも、あたたかな緑の香りがするのも、ボクを緊張させるのには十分だった。

「アンニカさん、あの……」

「ふふ、なんだか堅苦しいというか、アナタは真面目なのね。そりゃあ、私の方があなたより年上でお姉さんだけど、そんなにかしこまらなくたっていいのよ?」

「そうかな……。じゃあ、アンニカ、急に敬語で話さなくするなんて難しいですよ……あ、難しい……よ?」

「あら? そんなことないわ。敬語じゃないその方がいいわよ。敬語なんてつかわないで。その方がずっと自然でずっと素敵よ?」

 初めての年上の、しかも異性の友人に、ボクはとても緊張していた。でも彼女の優しさを前にしたら、そんなのはとても些細なことだった。それからも、ボク達は何度も会い、彼女はボクのために歌ってくれた。ボクは何度も彼女の歌を聴いた。

 

 そんなある日、ボクは遠出をすることになった。突然の依頼だった。

「ヘンリク、おつかいをたのまれてくれないか?」

「ええと……はい、いいですよ」

 内容をしっかり確認する。まあきっと、その程度ならボクにも出来るだろう。

「…………では、よろしく頼むよ」

 いつも世話になっている人からのお願いだ。いつもは優柔不断なボクだけれど、この時はすぐに返事ができた。でも、引き受けたのは良かったが、まさか隣の地区へ行くことになる用事だったとは思わなかった。そこへ行くには汽車に乗らないといけない。少し不安だが、楽しみでもあった。一人で汽車に乗るなんて、ちょっとした旅行気分になれる。

 

 でも、ボクは、その帰りにあの事故に巻き込まれたのだ。

 

 ボクは、小さい頃から、ほかの人とは違って傷が治るのがはやかった。今まで、再生という表現が合いそうなくらいのその様子から、この体は気味が悪くて嫌いだった。でも、ボクはそのおかげで、今回助かったようだった。後で聞いた話だが、この事故で生き残ったのはボクだけだったという。ボクの乗っていた汽車は脱線事故を起こしたそうだ。乗っていた誰もがぐちゃぐちゃになって死んだというのに、あの状況で生き残ったのは奇跡だ、と言われた。

 

 彼女に会えない間、ボクが目覚めるまでの間、彼女は夢の中でも歌を歌ってくれた。夢の中の彼女はいつも笑っていた。いつものように、静かに微笑むように歌い、ボクに笑いかけた。

 

 しばらくして、やっと動けるようになった。いますぐにでも行こう。彼女の歌が聴きたくて、ボクはあの場所へと向かう。夢の中でも、いつでも彼女は静かに微笑むように歌うのだ。いつもの辺で、美しいあの小鳥の様に青く澄んだ歌声が聞こえてくる。ボクは彼女の歌声を頼りに、そっと近付いて声をかける。そして後ろから彼女の名前を呼んだ。ボクの声をきいて振り返った彼女は、ボクを見つけて泣き出した。何故泣くのだろう。君が僕を見て泣く理由なんて、一つもないじゃないか。

「良かった、無事だった」

「無事っていうと微妙だけれどね」

「あ……。そう、もう見えないのね」

「うん、そうなんだ」

 この時、ボクの片目はまだ少しだけ見えた。でも、彼女の表情は見えなかった。彼女は優しくボクの顔に、目に手をあてる。彼女の手は、彼女の声と同じく優しくてあたたかかった。

 

 でも、そんな彼女はボクの代わりに死んだ。ボクがデュハウントに襲われそうになった時、彼女はボクを庇った。文字通り命懸けでそうしたのだ。彼女も、ボクと同じデュハウントに取り憑かれた人間だった。彼女は、デュハウントに二度襲われた時にはどうなってしまうのか知っていたようだった。ボクは彼女に助けられ、彼女は僕の前から消えた。もう彼女はいないから、彼女の歌を聴くことも出来ない。いつの間にか持っていたこのお守りを握りながら、ボクはいつもこうしてこの丘に座るのだ。

 

「ねえ、アナタ、よくここに来るの?」

 さっきの歌声の持ち主だろう、綺麗な声の女の子がボクの隣に座って話しかけてきた。

「はい。……この場所、気に入っているんです」

「私も好きよ、ここ。いつも風が心地よく吹いているもの。あ、アナタのそのお守り、素敵ね。白い石なんて珍しい」

「ありがとう。これはボクの大切なお守りなんです。これは彼女が……。彼女……が…………?」

「あら、アナタ全然笑ったりしないのね。ん? どうしたの?」

 ボクは言葉に詰まってしまった。このお守りは彼女に関係しているのか? それすらもわからないが、何故か彼女のことを話そうとすると、彼女のことを思い出すと、言葉が出てこなくなるのだ。それなのに、なんでこんなにも、わからない彼女のことが忘れられないのだろう。

「それは、きっとアナタが恋をしてしたからよ」

「え……?」

 隣に座った女の子が、ボクの考えをまるで読み取ったかのように言った。

「そういうものは、自分では気づかないものなのよ。人はみんな、自分自身のことは自分が一番わかっていると思いがちだわ。でもね、本当は自分自身より、周りのほうが貴方のことをわかっているのよ」

 ああ、そうか。ボクは彼女のことが好きだったのだ。自分ではそんな感情をもつなんて思ってもいなかった。自分のことは自分が一番わかっていると思っていた。

 

 でも、気づいたところで彼女はもういない。どこにも居ないのだ。

「ふふ、なんだか堅苦しいというか、アナタは真面目なのね。ずっと敬語だなんて、そんなにかしこまらなくたっていいのよ?」

「そう、かな……。あれ……? 前にもどこかで……」

 

 ボクの状況と、彼女もまた「取り憑かれた」人間であったことからかんがえるに、彼女の力は「記憶を消すこと」で、彼女はボクの記憶を消したつもりだったようだ。でも、それは失敗していた。ボクの記憶が消えていたのはとても短い間だけ。あの後一~二週間で記憶が戻った、それからは今までと何も変わらない……いや、本当にそうだったのだろうか。彼女の言う通り、自分自身のことは自分が一番わかっていると思い込んでいるだけなのかもしれない。もしかしたら、ボクは……。

 

「……あ、アンニカ?」

「え……? うそ、でしょ? ……あはははは!」

 彼女は笑った。とても楽しそうに明るい声で笑った。

「あっ……ごめん。なんでそんな名前……」

「ふふ、いいのよ! まさか、私失敗していたのかしら? いえ、覚えていてくれたのね」

「え?」

「会いたかったわ、ヘンリク! ねえ! あなた随分お兄さんになったのね!」

 彼女はボクを抱きしめてくれた。この優しくて懐かしいあたたかさ、やっと全部思い出した。

「ああ、ごめん……ボク……なんで忘れていたんだろう」

「あら、そうなの?」

「だって君は消えてしまったとばかり……」

「それはね、アナタがそう思っていたのは、私がアナタの記憶を消したからよ。アナタの中の私、『アンニカ』の記憶を消したの。……なんだ、失敗じゃなかったのね、よかった!」

 彼女は優しく笑っていたようだった。ボクには彼女の顔は見えないけれど、きっと笑っていたのだろう。話している彼女の声は覚えているどの声よりも明るかった。

「あっ、でも、君が前に言っていた話では、奴に二度襲われた人間は……」

「それは……私が生きているのは力を使っていなかったからよ。力を使うのは奴と同化していくことなの。そうなるとアナタの片目の時みたいに視力が無くなっていくわ」

 彼女は説明を続けた。

「そうなると、二度目に襲われた時、奴らの求めている視力の分、目を直接取られるの。力を使いすぎていた人は両目を抜かれてしまうかもね」

「じゃあ君は……?」

「私はこうして元気よ?私はあの時片目だけで済んだの」

「君の片目は……ああ、君が生きていたことは嬉しいよ、でも……」

「そんなに悲しい声出さないでよ。私は平気なのよ。本当はね、アナタに会わない方がいいのだと思ったわ。あの時記憶を消したけれど、失敗していたらどうしようって。私がアナタに言った言葉は呪いのようだったから。そんな私のことは忘れて、ずっと笑っていて欲しかったの」

 驚いた。そんな事を言われるとは思わなかった。何でそんなことを言うのだろう、なんで彼女はそんな事をしたのだろうか。

「君がいなくなったら、ボクは笑っていられるわけないじゃないか」

「あら? あの時と同じこと言ってくれるのね」

 そう言って彼女はいつものように優しく笑った。

 

 ボクはもう何も忘れたくないし失いたくないよ。だから、君に言うんだ。

「ボクは君がいないと笑い方も忘れてしまうよ。ああそうさ、何度でも言うよそんなの。もうどこにも消えないで、アンニカ!」

 ボクは声の方へ手を伸ばす。でも何も掴めない、彼女はそこに居なかった。

 

「ごめんね、ヘンリク。私はもうアナタの夢の中でしか笑っていられないし、ここにしか居られないわ。だって本当はもう……」

「そんなこと言わないで、行かないでよ、ボクの記憶も消さないでよ!」

 

 ――ボクは、どうやら眠ってしまっていたようだ。体を起こすと、いつもみたいに緑の優しい匂いがする。今、もしかして、なにか夢でも見ていたのだろうか。なんだか少し胸が痛い。いつもどおり、何か大切なものがぽっかり抜け落ちたような感覚がある。ボクにはその正体がなんだか分からない。でも自分のことは自分が一番分かっているものだ。それでも分からないのは、きっと思い出してはいけない事なのだと思う。 

そっとこの思いをしまって、ボクはゆっくりと丘を下りた。

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