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第2章 1話​

 

 

 

 

 

 日常はあっという間に元通り。今までだって、そうしてきた。そうだった。でもそれを、ただ私が知らなかっただけ。

 

 私は教室へ行く。皆と同じように、待ち行く人や友達におはようといいながら。

 

 朝、私は一人で起きる。目覚まし時計がしっかり起こしてくれる。起きた後は、お爺さんとお婆さんに挨拶。私を育ててくれる優しい人達。

「おはようスイ。今日もきっといい日になるよ」

 お爺さんは今日もそう言ってくれた。

「おはよう、スイちゃん。朝ごはんは何がいいかしら?」

 お婆さんは今日も優しかった。この人たちは、いつも親切で、優しくて、いつだってここに来てよかったのだと思える。それが私の日常で、それが私にとっての普通。例え私の右眼が皆と同じように色を掴めなくても、みんな優しく接してくれる。周りの子達だってそう。手を引いて一緒に走る。お花を摘んだり、かけっこをしたり、一緒にお菓子を食べたりもする。みんな優しく私に笑いかける。きっと、それを友達というのだろう。

 

 

 教室の場所は街の会館。学びに来る子供達が増えたので、先生の家だと足りないと街の偉い人が貸してくれたそうだ。私よりずっと大きくて重そうな扉は、きっと私なんかが挟まれたらひとたまりもないだろうと思う。両手と全身を使って、精一杯の力で扉を開ける。重そうに見えるけれど、本当は重たい扉ではないからそこまでしなくてもいいのに、とは思う。だからいつも、扉は勢いよく開く。ぐわん、と思い切り開いた扉に体が持っていかれそうになる。それをこらえて一呼吸。

「おはよう、ルド先生」と、私はいつも通りの挨拶をする。それを聞いた皆が不思議そうな顔をして笑った。固まる私に、ゆっくりといつものペースでサラちゃんが言う。

「おはよー、スイ。どうしたの、ルド先生は居ないよ」

「……あ、そうだった」

 先生はしばらく前から休んでいる。もう二週間以上経つだろうか。なんでも体調を崩したそうで、しばらく自宅で療養しているとのことだった。お見舞いは、「気を遣わなくていいと彼が言うんだ」と先生の友達に言われて一度も行けていない。私がこの教室に通い始めてから毎朝、ルド先生が「おはよう」と言ってくれていたので、つい先生に挨拶をするのが癖になっているらしい。毎朝繰り返してしまうので、昨日もユリアナちゃんに言われたばかりだった。

「そうだよ、スイちゃん。ルド先生は違う街に行ったんだって」

「……え?」

 ちょっと待って、よく聞き取れなかった。いや、私の聞き間違いかもしれない。先生はただ、ずっと休んでいるのだ。今、先生は何だと言ったのか。急に言葉が掴めなくなる。そんな私の顔をみて、フレットくんが言った。

「変な顔すんなよ。スイ知らないのか? 先生は違う街に行ったんだ。引っ越したんだってさ」

「そうそう、今日から新しい先生なんだって! 楽しみだよね!」

 カッコイイ先生がいいね。いや、美人がいいな。なんて、皆は笑顔で言う。なぜ笑顔なのだろう。大好きな先生がこの街から出ていったというのに。もしかしたら、もう二度と会えないかもしれないのに。皆は大切な誰かが居なくなるかもしれないこの気持ちと、どう暮らしているのだろう。笑顔の皆をもう一度見る。皆の笑顔は、私には紙のお面に描いた意地悪な落書きに見えた。

 

 皆が私に笑いかける。お前も笑えと笑いかける。

 私はその空間に違和感を覚えて、なんだか怖くなって逃げ出した。みんなの笑顔が怖かった。色があるとか無いとか、そんなことはもう問題じゃなくて、ただただ、そこから逃げ出したかった。気がつくと私は、街の中を一人で走っていた。カバンも何も持たず、ただ一人で。

 

 あの空間の違和感を思い出す。あの空間がおかしいのか、それとも自分がおかしくなってしまったのか。この街を行き交う人々だって、皆笑顔で幸せそうだ。そんな笑顔も、今の私には本物に見えない。本当は皆が知らないだけで、今皆が気付いていないだけで、この街には大変なことが起こっているのかも知れない。私は、前に花屋で出会ったあの人の日記を思い出していた。

 

「――――ある時から友達は来なくなった。…………友達の家にもいった。その母親と話したら、「そうなの、帰ってこなくなっちゃったのよ。どこいったんでしょうね。まあ帰ってくると思うから問題無いわ。ただの家出でしょう?」というようなことを言っていた。対して気にしていない様子だった。私はそれにも不自然さを感じた。娘がいなくなっているのに探そうともしない、焦った様子もない、取り乱したり叫んだりなんてする様子もない。そしてもう二度と友達と会うことは無かった。彼女は何かに巻き込まれたに違いないとわかった、でも私にはどうすることも出来なかった――――」

 

 その状況とよく似ている、私はそう思った。皆笑顔で振る舞う、街の皆も、教室の皆も。先生のことを誰も探そうともしない、引っ越したんだと言ってただ笑っていた。先生が他の街へ行ったのは本当なのだろうか?あの慎重な先生が、引っ越しなんて大事をすんなりと決めるはずがないだろうに。先生は私達に会うのを楽しみにしてくれていた。そんな先生が何も言わずに、この街を出ていくなんてことはありえないのではないだろうか。

 

 とにかく走る。誰か、誰かいないかと。私の今知りたいことを教えてくれる誰か。そう、例えばルド先生のお友達とか。

「あ! そうだ、先生のお友達に聞けばいいんだ!」

 急いでその人の元へと走る。不安で怖くてたまらない気持ちを、少しでも早く落ち着かせたかったから。先生の友達は、街の中でも立派な建物が並ぶ辺りに住んでいると聞いたことがある。その人には、何度か会って話をしたこともある。たまに先生が私たちに教える様子を見に来ては、「ちゃんとやってるな、よしよし」なんて言って帰っていくだけの人だった。でもその笑顔は誰よりもずっと優しくて、私達と話す時はいつも、そんな笑顔を浮かべて、優しく頭を撫でてくれた。名前は、確か……マリウスさん。先生のお酒を没収する一員だとか。その人なら、きっと何か知っているに違いない。

 

 人を探すのは時間がかかる。全然見つからない。住んでいる場所もなんとなくしか知らないし、名前ももしかしたら間違っているかもしれない。そんなあやふやな記憶では、見つけるのは大変だろう。でも諦めるわけにはいかない。花屋の前を通り過ぎて、街のもっと奥へ。会館があったのは街の真ん中の方。先生の家は確か南の方だと聞いた。記憶を頼りに私は走った。

 

 あれからもずっと探し回った。けれども、全然探している人は見つからない。真上にあった太陽は、少し傾いてお昼が終わったよと教えてくれる。私はすっかりお昼ご飯を忘れていたことを思い出した。お婆さんが作ってくれたお弁当も、会館の皆の所へ置いて来たままここまで走ってきてしまったのだから。お腹は空いているけれど、荷物は何も持っていない。お弁当だってお金だって持っていない。帰るにも諦めきれないし、お腹は空いているし、でもどうすることも出来ない。困り果てて立ち尽くす。

「どうしたの、お嬢ちゃん。お困り?」

 明るい声に話し掛けられた。振り返ると、そこに居たのは探していた人。先生の友達のマリウスさんだった。

「……あ、あの! 聞きたいことがあって、マリウスさんのことずっと探してたんです……」

「あ、ルドのところの子か? 道理で見た事がある子がいるなと思ったよ。そうだったのか……もしかして午前からずっと?」

 私は真っ直ぐ目を見て無言で頷く。

「それは悪いことをしたね。俺も今こっちに戻ってきたところだったんだ。ごめんな、ずっと探し回ってたんじゃ疲れただろ」そう言って頭を撫でてくれた。

「それならお昼はまだか? 俺も午前はバタバタしてたものだからまだ食べてないんだよ。一緒に食うか?」

 マリウスさんはそう言って、私の分の昼食も買ってくれた。お昼ご飯をご馳走になりながら、お婆さんにお弁当を作ってもらったお弁当のことを思い出して申し訳ない気持ちでいっぱいになる。家に帰ったら謝ろうと思った。一緒に遅めの昼食を摂りながら会話をする。マリウスさんは先生の友達で、ずっと仲良しなんですか、と聞くと「いつから友達だったかな、もう何年前のことか忘れたよ」と笑いながら言った。先生は、今どこにいるのか、私は聞いた。するとその人も皆と同じことを言った。

「ああ、ルドなら引っ越したよ。二日前だったか、昨日だったか」

「先生、何か言っていませんでしたか?」

「いいや、何も。挨拶なんて水臭いのは無しだ。大人の世界はそういうもんさ、お嬢ちゃん」

 そう言って、いつものように頭を撫でてくれた。仲のいい友達同士ならなおさら、あいさつなんて当然するものではないのか、彼の言葉に違和感を覚える。その人の笑顔は、いつもと変わらず優しかったけれど、どこか冷たさを感じた。まるで、皆と同じただのモノであるかのような冷たさを。恐る恐る見上げると、そこには優しくあたたかい笑顔があった。私の見間違いだったようだ。やはり自分の目で見たものが本当、自分の目で見たものだけが本当だ。ルド先生のことだって、この目で見るまでは信じない。先生がもうこの街に居ないなんて嘘だ。私は先生の部屋を見せてもらおうと思い、マリウスさんに頼んだ。

「あの、私、先生の部屋に行きたいんです。見せてもらえませんか?」

「…………え? ああ、いいよ。連れて行ってあげよう」

 マリウスさんは、一瞬不思議そうな顔をしたように見えた。でもそれは一瞬で、いつも通りの笑顔で、私をルド先生の家へと連れていってくれた。

 

 先生の家へ行く。二階建ての静かな家。何度かここで教室、勉強会が開かれていたので、前に数回だけ来たことがあった。一人で入るのは初めてだ。ドアは前と一緒、落ち着いた白っぽい色で、やっぱり先生らしいな、と思った。

「次の人が住むまでは空き家だからね。部屋の中は俺が片付けたんだよ。大家さんも人遣いが荒いよな、友達だからって……おっとつまらない話をしてごめんな。じゃあ、行こうか。そうそう、鍵は大家さんに借りてきたから大丈夫さ」

 そう言いながらカチリと鍵を開ける。マリウスさんは、好きに見ておいで、と言って中には入って来なかった。扉を開けて中へ入ると、そこにあったのは生活感のない部屋。引っ越したのだから当然だろう。しかし、机や戸棚なんていう大型の家具らそのまま置いてあった。それ以外は何も無い。少しだけ肌にまとわりつく、ピリピリとした空気に満ちているだけ。嫌な雰囲気、という方がわかりやすいかもしれない。先生がここに住んでいたと分かるものは何も無かった。誰かが住んでいたなんて、嘘のような空間。まるで、誰も最初からここに居なかったかのように何も。ああ、本当にいないのか。それに寂しさを感じながら、中をぐるりと見渡す。隣の部屋へ繋がるドアは全て開いていて、ここにあったのは、無機質なただの空間だった。誰もいないのは見なくても分かる。ゆっくり中を見て回る。リビングは広い、ダイニングもキッチンも立派だ。ダイニングの位置には、テーブルと椅子だけがぽつんと置かれている。優しく、暖かい太陽が入ってくる日当たりのいい部屋。ここで食事を摂ったのなら、きっと素敵な時間になるに違いないと思った。隣にあった広い部屋、中には大きな机。そうだ、ここは先生が皆に勉強を教えていた部屋だ。そこにはただ、一人暮らしに似合わない大きな机があるだけだった。

 

 

 私は二階へ向かう。嫌な空気が濃くなる。いくつか部屋を回った。空の本棚が置かれている部屋。空のクローゼットと戸棚だけがある部屋。二階も変わらず、ただ大きな家具達だけをそのままにして、それ以外の物は一つもない。寝室は、ベッドが壁際に一台、窓際には小さな机と椅子が置かれていた。しかし、その部屋は床だけが妙に綺麗だった。それはまるで、何かを隠しているようにも思えた。

「……」

 頭の後ろを優しく撫でてくれる少し傾いた陽だけが、私を見守る。私は、なんとなくベッドの下を覗いた。床に当る傾いた陽を掴んで、何かが光っているのを見つける。私の手でも届きそうだと手を伸ばすと、割れた石の欠片が出てきた。欠片と言うよりも、まるでオレンジを切るように綺麗に真二つ、丸い石を半分にした物。割れた、というならきっと、断面はガタガタしたものになっているだろう。この石は確か、瑪瑙石。先生が前に教えてくれた。先生のお守りもたしか――。

 

 あれ、石って簡単に切れるんだっけ?

 

 部屋が暗くなる。太陽は雲に隠されてしまった。部屋の影が冷たく、ずっと濃くなっていく。背中を冷たい指でなぞられたように、ぞっと鳥肌が立つ様な怖さを感じた。考えたくないことが頭をよぎる。先生はここで何かを見たのか。何かを知ってしまったのだろうか。先生がいない本当の理由は――でもそれは、きっとこれ以上考えてはいけないことだ。知ってはいけないことだ。誰もいないはずの背中側から嫌な空気が立ち込めるのを感じる。ここにあるのは影だけなのに、何かに見つめられている気がする。「これ以上、何かを見つけてはいけない」と、自分にそう言い聞かせて、振り返らずに私は部屋を出た。玄関まで走る。陽の光が入らなくなった部屋は、一層不気味さを濃くする。早くここから出なくては。

「わあっ⁉」

 玄関を飛び出ると、目の前にいたマリウスさんにぶつかった。ずっと外で待ってくれていたらしい。外は、もうすぐ夕方。雲間からオレンジに近くなった色の陽がさしている。

「どうしたの? そんなに急いで」

「あ、あの……」

 見上げた彼の顔は、後ろに傾いた夕日を背負っていてよく見えない。

「大丈夫?」

 彼はそう言って私の顔をのぞき込む。その目は、その笑顔は皆と同じ、冷たくてどこか怖い。光を写していない目、あの部屋の影と同じ色。嘘みたいにはりついて、お前が見ている世界の全部は偽物だ、そう言われているように感じる。

「……大丈夫? そうだ、もう暗くなるから帰った方がいい。途中まで送……」

 怖くなって、彼の言葉を遮って言った。

「いや、いいです。ありがとうございます。今日はありがとうございました……」

 気をつけてな、といってマリウスさんは手を振ってくれた。分かったことは、先生はどこにもいないこと。残ったのは、手に握ったこの瑪瑙石の欠片だけ。本当は聞きたいことがいっぱいある。先生の部屋を片付けたのは彼だから、知っていることもあるだろう。でも今は、それを聞いてはいけない気がした。

 

 先生は何処に行ったの?

 「本物」は、「本当」はどこにある?

 

 

 この街に無いもの、この街にしかないもの。それを深く知ってはいけない。本当を知ってしまったら、きっとここにはいられないのだから。

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