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第3章 1話​

 

 

 

 

 

「やあ、いい夜だね。星の明かりすら無い。これは永遠に続く微睡みだ」

 声を頼りに目を開くと、目の前は暗闇だった。どこを見渡しても暗闇。光などどこにもないのに、自分の姿形だけは、しっかりとわかる。何も見えない場所に立っているのだ。
 目の前の暗闇から声が聞こえる。

「ごきげんよう。始めまして。私は貴方を待っていたのだ。私はこの時を……」

 聞き覚えの無い男の声。その落ち着いた話し方は、文字通り、顔見知りへと夜の挨拶をするよう。語り口は、暗くて足元が見えない夜道を、消えかけのランタンで照らして進むよりも確かな足取りで、その宙に浮く言葉の一つ一つを、確実に踏みつけて、泥濘へ並べていく。踏みつけられた言葉は、滲んだインクのようになり、暗闇をより深くしていった。

「……ご覧! 時は満ちたのだ!」

 先程までの落ち着いた様子とは一転して、感情をのせるように、それを爆発させるように、声を張り上げた。これには少し驚いたが、まだ、どこから聞こえてくるのか全く分からない。

「ああ……取り乱してすまないね。そう、これだ。いつか言ってみたかった。ついに言えた私は、慊焉たらざる心持ちだ。ああ、違うのだ。そう、これは形式だけのもの。きっと、『私』に感情があるならば、そう言うのが正しいのだろう。さあ、今はその時の中。貴方に私はどう映る? 貴方の瞳に映る最後のものは私。その瞳には何が映るのだ?」

 元の調子を取り戻したように、それは落ち着いた声色だった。
 だがしかし、映るも何もない。先程からずっと、私の瞳がとらえるのは、己の姿とそれを囲う闇だけ。分かりきったことである。それをわざわざ口に出すなど、無駄以外の何物でもない。何を答えさせたいのか、私はため息をついてみせた。

「失敬した。混乱させるつもりも、失礼をはたらくつもりもなかったのだ。……そうか、今、漸く貴方が言いたいことが解った。人間を理解しているつもりだったのだが、やはりまだ足りないようだな。いいや、それは少し置いておくとしよう。今、貴方の言いたいこと、思っていることはこうなのではないか? 貴方は私の言葉の通り、貴方を映す瞳が欲しいのだろう、違うか?」

 確かに、言う通りなのかもしれない。
 私は、私自身の姿形と、目の前の闇以外を視認できない。どこからか聞こえる男の声以外の物音は、自分の呼吸だけ。私は私を認識したい。生きているのか、死んでいるのか。首筋や手首へ指を触れて、胸に手を当てて、その拍動を確認するのでも良いかもしれない。だが、それが無かったとき、それを思うと、恐怖に手が動かなかった。
 私は、私自身を、他覚的な手段で確認したいのだろう。
 そのために私は、私を映す鏡を欲しているのかもしれない。

 私は、自分がここにいる理由も、仕組みも、何一つわからない。

 私が覚えているのは、自室にいた自分。何の気なしに、あの名前を口にしてしまった。目の前に真っ黒な塊が立ち、影を延べたリボン状の腕のようなものを、真っ直ぐ、私の方へと伸ばしてくる。それを見て、死を覚った。全ては無駄だと、仕方の無いことなのだと、目を閉じた。

 しかし、どうだろうか。私はここにいる。ここは何処か。
 私の声は何処へ行ってしまったのか。
 私はどうなってしまったのだろうか。

「貴方は聡明な方だ。だが、人間だ。そんな貴方を不安にさせてはいけないと、その姿を残したままにしたのだ。しかし、反ってそれが、貴方の不安を増強させて仕舞ったらしいな。全く、人間の感情とは不便なものだな」

 褒められているのか、それとも貶されているのか。一体何だというのか。姿の見えないそれは、恐らく私の思う通りのものだ。私の前に現れた影。真っ暗な闇の塊。影の化け物、デュウハウント。

「安心し給え、貴方を映す瞳は既にある。貴方が自らを映しているその瞳は、貴方のものでもあり、私の物でもある。今の貴方に残されたのは、姿と思考だけだ。声も、名前も、全ては消えた。もう思い出すこともないだろう。今ある多少の記憶も、その他のものも、いずれは消え行く。そうして、存在していたという事実も薄れていくだろう」

 言う通りだ。名前はもう思い出せない。
 私が私であることが分かるのは、もうこの姿だけ。この姿だけが、私を、私であると証明する。だが、それの言葉に則ると、それを映しているこの瞳は、私の物であって私の物ではない。では、この瞳に映る姿も、もしかしたら偽りなのか。その言葉の通り、私に残されたものは、もう、この思考だけなのかもしれない。

「……ふむ、そうだな……順調に物事が進む時こそ、用心をしなければなるまいな。確か……そう、過去にも同じようなことがあったはずだ。あの時は、奪うはずが奪われてしまった。何を奪おうとしたのか、何を奪われたのかも分からないままだが……おっと、いけない。貴方は、まだしていないことがある。だというのに、私は貴方を、いいや、貴方のその『役割』を欲していたあまり、早とちりをしたようだ。気付けたことは幸いだろうな」

 していないこと。
 私が何かを忘れてしまったわけではない。私のしたいことなど、挙げればいくらでもある。それは「まだしていないこと」などという一言ではまとめられないものだ。
 見えないそれが指す言葉。それは恐らく、私に何かをさせたいということなのだろう。
 加えて、私の『役割』を欲していたと言った。私の役割とは何か。これまで、特段何もしてこなかった。私は私であっただけだ。だが、そうではないのだろう。恐らく、見えないそれが言う役割とは、「人間が、人間社会で暮らすために全うすべきもの」を指すのではないだろうか。それに当てはめるのなら、私の役割は、子供達に勉学や剣術を教える「教師」だといえる。それを欲していたと言うのか。

「ヒトとしての形は、ずっと前から知っている。だが、人として紛れるためには、何か、適切な、それらしい役割が必要だろう」

 教師という役割は、誰にとっても分かりやすい職業だろう。信頼を得やすい役割だろう。それが必要だと、「人として紛れる」と言ったその言葉の意味を考える。初めて触れる得体の知れない相手の考え。影の化け物は、人を襲うだけが能の存在ではないらしい。化け物は化け物であることを望んでいないのだろうか。
 人に、なりたいのだろうか。

「それも大切なのだが、先程も言った通り、まだしていないこと、の方を考えたい。私がそれについて失念していた為に、もう貴方には『本』を書いてもらうことが出来なくなってしまったのだ……」

 私にそれをさせたかったということなのか。
 己が名前すら分からなくなってしまった私に、出来ることだとも思えない。だがしかし、『本』とは一体何のことなのだろうか。先程から、私の思う意味と少しズレた意味で言葉を用いてくる。ズレた、というより、単純な言葉に絡ませた意味が、推察しにくく、理解しがたいと言うべきか。

「おや、それは『本』が何かを知りたいという表情だろうか。やはり、声を持たないのは不便かもしれないな。はて、この会話に意味はあっただろうか。この問い掛けにも。いや、これは会話と言えるのだろうか。ああ……そう、まず『本』について説明しようか。『本』というのは、人間を知るために、私が死を与えた人間に、その『終までの物語』をありのまま書かせていた物だ。ある者は日記のように、ある者は本を書くように――――」

 私はそれに覚えがある。それは、私が読み書きを教えていた理由の一つでもあるのだ。
 街の者達は、手紙や日記を書きたいから読み書きを教えて欲しい、と言った。元は家庭で教えられていたそれも、街が栄えていくにつれ、自らの子の世話さえ手が回らなくなっていたのかもしれない。それは、繁栄の代償とも、親としての役割を放棄した結果の怠惰とも言えるかもしれない。教育すら消費されるものに成り下がった。教師というものは便利につかわれたものだ。託児所代わりに子供を預ければ、教養と社会性を少し身につけて帰ってくる。そんなありふれた仕事だったが、求められてのものだったので私もやりがいを感じていたのだ。そのお陰で、私も食事にありつけていたのだから。そう、その役割は、その仕事は、私の生活だったのだ。
 それすら、計算のうちだったというのか。

「しかし、そのようなもの、『本』というものも必要なくなった。先程も言っただろう。『時は満ちた』のだ。私は人というものを理解し、とうとうその役割も手に入れた」

 まるで、全知全能の神にでもなったかのような言いようだ。
 異形は人間としての思考と器を手に入れた。数多の尊い犠牲を払って、この街の死体の上に、それは成り立っているというのに。

「そうか、これで漸く揃った。ほう、成る程。『教師』……『先生』というものは、そう振る舞う者なのだな。理解した。私はこれから、『居なくなった』貴方の代わりに、教鞭をとる『教師』となる。私は貴方に感謝しよう。貴方は私に足りない物を与えてくれたのだ。私は貴方の代わりに、欠けた『役割』を果す存在となろうではないか」

 乾いた足音に振り返れば、そこには一人の男が立っていた。声の主は、私の後ろに立っていたらしい。

「この姿のことが気になるのかね? ああ、これは…………私が最初に見た人間、だろうな」

 暗い色の髪がよく似合う、物静かそうな男がそこに居た。袖口を確認し、そのまま両手を握ったり開いたりした後には、指をバラバラに動かしていた。手首を捻り、掌と甲を眺め終えると、満足そうに片手で顎をさする。次には、ぐるりと一回り、辺りを見回すように頭を動かしたり、眉を持ち上げて表情を動かしてみせた。それを終えると、上着の裾をつまんで持ち上げ、それをパッと離す。その様子は、まるで、一つ一つを確認しているようだった。
 物静かそうな、というのは服装も影響しているのかもしれない。青を基調としたその立て襟の服に、どこか遠い国のものであるような少しの違和感や、多少の古めかしさを感じた。確かにこの街のものであるのだろう。だが、今はもう使われていないものなのではないだろうか。流行に疎い私でも、何かが違うと感じるのだ。
 男はこちらを見ている。いや、見ているようだが、その瞳に私は映らない。閉じられているようなその細い目の奥には、きっと、映してはいけない光がある。
 私は、この男に見覚えはなかった。
 だが、どこかで会ったことがある、という錯覚に陥った。いや、それだけではない。なぜか、見てはいけないものを見てしまったような気さえした。
 しかし、これを知ったところで、今の私にはどうすることもできない。もう、誰かに伝える術もないのだ。だからこそ、明かしたのだろう。

「それから、私に最後の大切なピースを与えてくれた貴方へ、心ばかりのプレゼントを。――――人は、鏡に映る自分をみて、その姿は自分自身である、と認識できる生き物なのだろう? さいごに目を閉じた貴方は、自らの最期を見届けなかった。だからせめてものプレゼントだ。貴方の『最期』を、その瞳に映すといい」

 男は私を指差した。
 私は自分の方を見る。何も変わりはない。それを確認し、彼は何を言いたかっただろう、と顔をあげた。

 そこに男の姿はない。見覚えのある部屋、私はそのベッドに腰掛けている。
 最後に目を閉じた場所。いつものように、気に入っているベッドの上に腰掛け、就寝前の一時を、変哲のない一日を振り返り過ごしていた部屋だ。これは、まるであの時の続きのよう。何かをすくい損ねた右手は空のまま、その掌を天井へ向け、からだの前で静止していた。足元には「お守りだったもの」が転がり、ベッドに腰掛けた私の目の前には――得体の知れない影が、細く薄くしなやかそうで腕ともとれる部位が、目の前に真っ直ぐ伸びている。

「……ま、待て、待ってくれ……! 私はまだ」

 したいことが山ほどあるのだ。していないことが数えきれないほどあるのだ。いくら私がまいた種といえど、仕方のないことだといえども、ここで私が居なくなったら、子供たちはどうなってしまうのだろうか。

「……ッ! う、ぐ……あッ」

 頭に響くのは液体の音。それから、何かが削れる音。何かがちぎれる音。引き裂かれ、バラバラにされる。抉りとられた片側の瞳は、不要だとでも言うように投げ捨てられた。瞬きをする間もなく、私が壊されていく。

「…………くふっ」

 ぶちぶちという、何かが無理やり断ち切られる音は、外からも、からだの内からも聞こえる。痛い、という感覚は、もはや追い付かない。影は私の上に覆い被さっている。補食される生き物はこんな感覚なのだろうか。殺人鬼に殺される人間とはこんな感覚なのだろうか。鋭い牙で身を抉りとられる。刃物で滅多刺しにされている――勿論、その化け物には、牙もなければ刃物の持ち合わせもないのだが――衝撃はからだのいたるところを貫き、隙間からは私の命が溢れていく。シーツはきっと赤く染まっている。視線が低いので見渡すのが困難だ。見えていたところで変わりはない。転がるのは私の肉片だけ、滴るのは私の血液だけだ。

「ぶえっ……ゴホ……」

 気を失えたらどんなに楽だろう。
 それすらできないのだ。私は、なす術なく、瞬く間に崩されていく自分を見つめるしかない。あの男の言うように、私は、私の最期を、見届けなければならないらしい。

「……いッ」

 裂いた隙間から、その細い腕のようなものを差し入れて、何かを探すように内臓をかき混ぜる。湿っぽい不快な音と共に、熱が失われていくのを覚える中、心臓だけは忙しなく拍動していた。
 化け物が手を引く。
 そうか、目当てのものが無かったのだろう。きっとそうだ。何を探していたのか分からないままだが、きっとそうに違いない。
 飽きて去るのかと思い見ていれば、静止した化け物は透けた頭部をブクブクと泡立たせ始めた。曖昧な輪郭は、膨張し明確になっていく。

 生暖かい空気。
 それを頬が感じたときには、もう世界は闇にのまれていた。

 

「泣き叫ぶ男を見るのが趣味……というわけでないのだが……まあ腹は膨れたな。文字通り腹の足しになった。そう、貴方はもう、私の腹の中だ」

「……さて。では、私も役者になるとしようか」

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