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第3章 2話​

 

 

 

 

 

 名のあるものはただの飾り。それを纏ったところで、本質は変質しない。だが、夢くらい見たっていいだろう。そのくらいは、許されても良いはずだ。

 俺だって救われたい。

 言い伝えを信じる大人は大勢いる。
 お守りを持つのだってそうだ。
 だが、それは「信じている」と言っているだけ。体裁を取り繕う、いつもの大人のやり口だ。子供の言うことは、真剣に取り合ってくれない。
 だから、生徒は、もう誰一人いなくなった。誰も気付かなかったから。誰も信じなかったから。この街は、きっと、ずっと前からおかしかったのだろう。

 これ以上悪いことが起こらないように、と手を回したヘンリクの働きかけによるものでもある。だが、人口が減っていることも確かだ。午前の教室は閉鎖。午後の教室は、もう俺一人。

「……ニッツ先生、話があるんだ」

 物静かに本を読む男に、俺は声をかける。彼は、俺にとっては先生だ。彼との距離は、三メートルほどだろうか。昼過ぎのまだ夕方に向かうには早い陽が作る影は、俺と先生の間に広がっていた。

「ああ、君は……」
「俺の名前は?」
「はて、なんだったかな」
「……ねえ、どうして覚えていないの? 毎日会って、毎日名前を伝えあうなんておかしいよ。いいや、きっとこれは無駄だ。名前なんていうのは、ニッツ先生、貴方にとって、どうだっていいことなんだ。そうでしょう?」

 突き放すように言った俺の言葉に、彼は眉をあげた。

「おや、それはいけない。名前は大切にするものだ。その名前には意味があるのだろう? 言葉には意味がある。それを大切にしてこそ、それを慈しんでこそ、人間なのではないのかね?」

 いつものように、ゆっくりとした口調で言葉を並べる。

「……その名前を覚えていないのはどちらの方なの? 貴方の方でしょう、ニッツ先生。口を滑らせたのも貴方だ。貴方の言葉を借りて言うとこうなるんだ。それを大切にしない貴方は、人間だといえるの?」

 俺は、もう一人の先生に教えられた通り、言葉を返した。

 

 

 ここに来る前、俺はヘンリクと、その知り合いのエトワルトという人と一緒に居た。俺は二人のことがとても好きだ。でも、彼らは何かを知っていて、それについては、まだ俺のことを子供扱いして、何も教えてくれない。そこだけが少し不満。
 ヘンリクは、いつも真剣に話を聞いてくれる。彼はとても話しやすい。それはきっと、歳が近いというのもあるかもしれないけれど、彼は人の話を聞くのが上手なのだと思う。彼も、同じ教室の卒業生らしい。今では、彼は立派に先生をやっている。それは尊敬に値する。俺にとって、一番近いけれど、一番信頼している「大人」だ。
 エトさん――エトワルトは、まだ知り合ったばかりだけれど、いい人だと言うのはわかる。彼はたまに変わったことを言う。変わったこと、というのは、俺の主観。それは、彼にとっては何も変わったことではない、というのは俺もちゃんと理解している。彼は何かが見えているらしく、それについて「霊能者的な何かなのか」と聞いたら笑われてしまった。

「リニュス、大丈夫ですか」
「……ん? あ、えーと、大丈、夫……あえ?」
「リニュス、君、今寝てただろう」

 本をパタンと伏せながら、エトワルトが俺に言った。なんだか感覚がふわふわしているし、記憶もあやふやだ。どこまで聞いたか、なんの話をしていたのか、パッと思いませない。俺は今きっと、うわ言のような返答をしただろう。

「あまり眠れていないのですか?」

 ヘンリクは心配そうに聞いてきた。彼にその理由を話したことがあったか思い出せないので、返答は濁しておくことにしよう。
 今は、世間一般には午前、それも昼前の忙しい時間。いつもの俺なら、まだ布団の中にいるはずの時間だ。

「ああ、ええと……これはいつものことなんだ、迷惑かけてごめんなさい。もう一回だけ話してもらってもいい?」
「――――あれ、は」
「エトさん? どうかしましたか?」

 エトワルトは、ヘンリクの問いかけにも答えずに、俺の方向をじっと見つめている。俺は、何か顔についているのかと思って頬に両手を当ててみた。特に変わりはないようだ。そのまま前にスライドさせて、鼻と口が隠れる位置で両手を合わせて考える。少し考えてみると、彼は俺の顔が見えていないはずなので、「顔に何かがついているから見ている」という可能性は限りなく低いだろうということに気が付いた。少し恥ずかしくなって、パッと手を机の下に潜らせる。

「なあ、リニュス。その理由、話してくれないか? 無理にとは言わない……と言いたいところだが、恐らく、そう言っていられないことだと思う」

 一人でもぞもぞしていた俺に気づいているのかどうか分からないが、エトワルトは真剣な表情だったが、少し遠慮気味に言ったような気もした。彼に聞かれたその理由は、別に話しにくいことではない、はずだ。いや、思い返すと怪しい気がしてきた。こんな歳になって夜が恐くて眠れないとか、朝に一人で起きられないとか、そんなことを自分の口から言うのは、やっぱり恥ずかしいかもしれない。重要なことだ、という雰囲気で彼が話すものだから、そんな恥ずかしさと戦いながら、俺は話すことにした。
 夜はいつもきまって「不安」と「恐怖」で時間と空間が満たされる。窓から視線を感じる。怖い夢を見る。何かが近付いてくる感覚がある。でも、それもきっと、俺の思い過ごしなのだろう。お守りは肌身離さずもっているけれど、そのせいで眠れない思いをしているのだ、と。

「そうか……大変だったろう。話してくれてありがとう、今はまだ救ってやれないが……」
「え?」
「あ、いや、何でもない。でも……もしかしたら、それを無くせるかもしれないんだ。それに君が必要だと言ったら、君はやるか?」
「……えーと」
「正しいかどうかだって? 違う、そういう理由じゃない。お前の言っているのは」
「……? エトさん? 俺、何も言ってないよ」
「あ、悪い……最近どうもおかしくて……」

 彼は俯く。
 俺は、彼の「それに君が必要だと言ったら、君はやるか?」という言葉に対して何も返さなかったはずだ。しかし彼は、まるで会話を続けるように続けたのだ。俺は「何も言っていない」と返してしまった。きっと返す言葉を間違えたのだ。それを見たヘンリクが、間に割って入って言った。

「もっと早く言ってくれればよかったのに、という言い方はするべきじゃないですね。話してくれてありがとうリニュス」

 ヘンリクの温かい言葉に照れくさくなる。勇気を出して言ってよかったと思える。言っただけでは何の解決にもならないが、きっとこの二人なら、この二人となら何とかなりそうな気がする。簡単にそう思えるくらい、この二人と居るのは安心できる。

「それと……」

 彼は続ける。それは深刻そうな表情で。

「……おかしいと思うことはそれだけですか? 何かほかに困っていることは……? 教室は僕の担当の時間ではないし、こうして会う以外ではなかなか君の話も聞けないですから」

 おかしいと思うこと。
 それは結構抽象的だ。ヘンリクにしては珍しい。
 思い当たらないわけではない。普通の価値観で考えれば、それが正常であるなら、もっと早くに気づけたはずなのだ。最近の街は、教室は――――

「そうだ、おかしい。おかしいんだ! 最近来た、ほら、あの……」

 新しい先生。名前はニッツというらしい。元研究者だとかなんとか。何の研究をしていたとか、どこに住んでいるのだとか、そういったことは一切分からない。彼の行動も、思い返せば不審だ。なぜ、自分の名前を言う時、言葉に詰まったのだろう。なぜ、俺の名前を憶えないのだろう。なぜ、怖いと感じるのだろう。

「もしかして、ニッツ先生のことですか?」
「オレ、その『先生』にはまだ会ったことがないんだよな」

 ニッツ先生は、教室以外では見かけない。エトワルトが会ったことがないのも当然だろう。

「――リニュス、君がやるしかないよ。怖いかもしれないが大丈夫、力不足かも知れないけれどオレ達がついている」
「え?」

 すこし考え込んでいた隙に話が進んだらしい。俺は何をさせられるのか。エトワルトが困ったような顔で口を開く。

「なんだ? 返事が曖昧ってことは、また聞いていなかったのか? いいか、ちゃんと聞けよ? まず、いや……第一にだな――」

 長い話はいまいちわからない。まあつまり、彼が言うにはこうだ。
 おかしいと思うこと。普通ではないこと。それをただつきつければいい。

「それが何になるの?」
「蛇が出るか、邪が出るか、だ」

 

 

 さて、これは何なのだろうか。
 俺は言う通りのことをしただけだ。

「なあ、君。そう、君だ。愛しい子、可哀想な子。眠れない夜は辛かろう。君のことはずっと知っている。だがもう大丈夫だ。君も皆と一緒に、ここにおいで」

 先生からのびる影は、不自然なほど暗かった。
 そして、その感覚には覚えがあった。
 そう、眠れない夜は辛い。窓から迫る視線に息が詰まる。見えない氷のような手が、恐怖という名で自らを飾り、冷気をこぼしながら、丁寧に、丁寧に俺の背筋を撫で上げる。

「――――ひッ」

 足元に広がっていたのは、ただの影ではなかった。無数の目玉を敷き詰めたもの。窓枠で切り取った夜空を敷き布にしたような、無数の点。その一つ一つは人間の瞳。ぐるぐると、それぞれ思い思いに、自由に動く。意思を持たぬように見えたそれは、俺が半歩足を引くと、一斉に俺に気付いたとでもいうように、視線で迫ってきた。
 それは、いつも俺を「見ていた」もの。

「あ、うあ……悪夢……悪夢だ! あぁ……」
「さあ、少年。こちらへおいで。君の瞳の色を、もっとよく見せておくれ」

 冷たい手が伸びる。大人の大きな手。細い指は不気味さを纏う。助けての一言も出てこない。怖いこわい闇へ、心は飲み込まれていく。
 ここまでかもしれない。
 
 何かに躓いた俺は、地面に映る影へ吸い込まれるように、そのまま後ろへ倒れていった。

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