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第2章 3話​

 

 

 

 

 

 オレはそこに居た。この街にいた。

 

 誰も気が付かない、誰も気付こうともしない、ということにオレは気付いた。誰に何を言っても意味が無いということに。けれど、もしかしたら聞いてくれる誰かがいるかもしれない。居るに違いないのだ。そう信じて今日も、人に、街に、訴えかける。

「何も見えないのかよ。この街の形も! 周りを歩くモノも!」

「……何を言っているんだエトワルトさん。あんたやっぱりおかしいよ。私には何も見えないぞ」

「おいおい、まともに取り合うだけ無駄だよ店長。自分で自分の目を抉りとるくらいだ、気が違っているんだよそいつは」

「……」

「ほら、帰るみたいだぞ。なあ、誰か案内してやれよ。目が見えない奴が一人で彷徨いていたら危ないだろ? こんな風にまた変なことを言って回るかもしれないしな」

「案内をしている途中でさ、歩いているのに隣で訳の分からないことを言われても困るだろう。ここまで来られたんだから、なんとかなるさ」

「……だ、大丈夫か? エトワルトさん?」

「ああ、気にしないでくれ」

 声色から分かる。「大丈夫だ」と「助けはいらない」とオレが言うのを期待した言い方。そう、誰も助けてくれる人なんていない。狂ってしまったのだと、誰もがオレのことを口々にそう言う。そう言うのも無理はないだろう。何かが見えるようになってしまったオレの言うことなんかに、誰も耳を傾けない。まともに取り合ってくれる人なんか、本当に一人もいない。皆は何も見えないのだから。でもオレには見えるのだ。

「でもアイツ、包帯グルグル巻きで目なんて見えないくせに、なんで正確に道を歩けるんだ?」

 誰かが後ろからポツリと言った。

 

 確かに不思議に思うだろう。不気味に感じるだろう。

 オレが見えるようになったもの、今まで見えなかった誰も見えていないもの。それは、前に見えていた世界と対して変わらないのかもしれない。建物も人影も見えている。ただ、その見え方が違うだけだ。建物は黒く不安定な輪郭をしていて、街を行き交うのは不自然な人影のみ、この街は灰色の薄く濁った空気に満ちている。街の人たちは一人も見えないが、店らしき建物に入って声を掛けると返事が返ってくるし、街を歩いていると「気をつけろ」だの「びっくりした」だの誰か彼かに言われる。誰一人も見えはしないが確かにそこにいる。恐らく、皆らオレを避けて道を開けてくれているのだと思う。誰にもぶつからないのはそのお陰だろう。目の辺りを包帯で巻かれて、杖も持たず、時々壁を伝って歩いている。そんな奴を奇異な目でみるのは当然だと思う。しかし、実際には問題は無いし、何とかなっているのだ。放っておいてほしいと切に思う。

 

 周りは、オレが自分で目を抉ったのだと言うがそうではないのだ。オレは、デュハウントに目を奪われた。奴は、くるりとその細いリボンのような手を回し、伸ばし、するりと鋭いスプーンでフルーツをくり抜くように奪っていった。あの時の「ブチン」と何かが切れたような頭に響く重たい音。あの時の音は、匂いは、感触は、光景は、二度と忘れないだろう。最後に自分の目で見た景色だから。

 

 皆は気付かない。今オレが見えているものが見えないからだ。街を歩く影、街の形、色、空気。見えないことは幸せだろう。この悪夢を見なくて良いのだから。信じていたものを裏切られる恐怖に、怯えなくていいのだから。いつもこればかりを考えてしまう。自分が世界に裏切られた気分でいっぱいになるのだ。そんな気持ちを抱えながら通りを歩いていたら、路地の奥から聞こえる何かの不自然な音が耳に入ってきた。

「……」

 おそらくあれは言葉だ。言葉のようなものが聞こえる気がする。誰かが話しているのだろうか。

「…………が……る、向こう……」

 何かを話す声だ。こんなところに人が来るのか? 辺りの空気は、通りより灰色を密にして、不安を固めたように不気味だ。袋小路に嫌な空気が行き場をなくしていた。誰がいるのか。いや、何が居るのか。

「……の通り……つ……来る……目を」

 そこに人の気配はない。見えるのは、オレにだけ見えるあの人影。人間ほどの大きさのものが三体だろうか。いや待て、奴らは「言葉を話すことが出来た」か? それとも、ただ単に自分がそれを理解出来るようになってしまったというのか。

「……ここの通りだ、奥から面白い奴が来る。何度も言わせるな、そいつの目を奪え」

 今度は、はっきりと聞こえた。オレは声を、息を殺す。もうここまで来たら引き返すことは出来ない。出来るところまでやってやる。行けるところまで行ってやる。奴らは何なのだろう。ただの化け物なのか? もっと近づけば、何かがわかる気がする。何が来るのか、これから何が起ころうとしているのか。目の前にあった三つの影は、ぞわぞわと壁に沿って動き出す。おそらく日に当たらないようにしているのだろう。オレは、その光景を少し離れた場所から見ていた。話し声が聞こえるギリギリの距離で。

 奴らはここの通りを来る奴の目を奪えと言った。オレは? もう奪われるものが無いオレはどうなる? そう思った瞬間、何かと目が合った。オレの前を通り過ぎようとした奴らのうちの一体。一つしかない目でこちらをじっとみる。今度こそ死んだかもしれない。そう思ったが、奴らはオレに見向きもしないで通り過ぎて行った。オレがいたのはこの路地の奥から四分の一ほどの場所。建物の影はずっと出口の近くまで伸びている。ああ、よかった。「奥から来る」と言われていたのはオレのことでは無かった。とりあえず助かった、と安堵する。

 オレは一体何に近づいてしまったのだろうか。

 見向きもしなかった、助かった。それは何故だろう。オレも奴らの狙う人間だろう。いや、今それを考えるのは辞めよう。今は一秒でも早くここを離れよう。足を一歩後ろに引く。しかし、その時見えない何かに引っかかって尻餅をついた。

「だ、大丈夫ですか?」

 足音が近づいてくる。その足音が目の前で止まった。急に手を掴まれた、おそらく目の前の人物だろう。遠くからは「先生なにしてるのー?」なんて声も聞こえてくる。向こうは子供の声か。どちらも声は聞こえるが、その姿は全く見えない。

「君たち、こちらへ来てはいけないよ。少しそこで待っていて。……ああ、大丈夫ですか? あなたがこちらの方へ歩いていくのが見えたから。ここは行き止まりだから道を間違えたのかと思って」

「ありがとう。そうだな、行き止まりだ」

 声が近づく。きっと彼はしゃがみ込んだのだろう。その時、見えなかった手が見えた。何故見えるのか、不思議に思って目の前を見る。先程の声の主がそこに居た。「どうしましたか」と言うその声は先程から聞こえていたものと同じ。彼は普通の真面目そうな青年だった。彼は手を引いて、立ち上がるのを手伝ってくれた。その間も、辺りの空気は不気味なまま。今はまだ日が出ている時間のはずなのに、相変わらず先程の影達は建物の影に潜んで蠢いている。

「……! 痛っ……?」

 彼の様子がおかしくなった。

「おい、どうした?」

「目、が……」

 オレから手を離して、彼は突然「目が痛い」と言い出した。彼のいる方を見る。彼は建物の影になる位置にいるのだと分かった。ここは袋小路、辺りは壁に囲まれていて、建物の影はいくらでもある。あの影たちが何やら一箇所に集まっている。その場所は、オレの前に立つ彼の所だ。奴らの手が伸びる、その位置は彼の目。今、彼の目の辺りに手を回しているようだった。先程奴らが言っていた「面白い奴」というのはこの彼のことだったのだ。彼はこのままだと、目を奪われてしまうのではないだろうか。もしかしたら、目の前で殺されてしまうのではないだろうか?

 あの光景が蘇る。自分が最後に見た光景。今、オレの目の前で知らない人間が同じ目に遭おうとしている。オレはその影を振り払いながら言った。

「おい、やめろって! ……な、なあ。君、『お守り』は持っていないのか?」

「え? おま……も……り……。ああ、それならここに……? あれ、どこだ?」

 ジャリ、と靴と地面の擦れる音が聞こえる。彼はしゃがみ込んで何かを探しているようだった。

「あ、あった、落ちていました。ここに……お守りがどうかしましたか?」

 彼はお守りを見つけたと言った。それ以降、何故か彼の姿は見えなくなった。同時に、そこにいた影たちも、彼を見失ったように散らばる。それを見てオレは安心した。今はまだ日中のはず、何故奴らが居たのか。もしかして、オレが時間を間違えているのだろうか。

「いや、何でもないよ。あるならいいんだ。あと……今の時間だけ教えてくれ」

「今ですか? 今はまだ十三時前ですが」

「ありがとう。君は早くここから離れた方がいいよ。……アイツらがいるんだ。ああ、オレは大丈夫だから。ほら、子供達も待っているんだろう」

「……待って、貴方は目が悪いのではないですか? 途中まで送りますよ」

「いやいや、いいって」

「こちらですよ、どうぞ。足元に気を付けて」

 彼は手を離してくれない。思ったよりグイグイと連れていかれる。あっという間に通りへ戻ってきた。

「家へ帰る途中だったのでしょうか? 行先は貴方のお宅でよろしいですか?」

「え……あ、うん」

「みんな、この人を家まで送るのを手伝ってくれますか?」

「いいよ、先生」

「ねえ、お兄さん名前なんて言うの?」

「名前? エトワルトだ、エトでいいよ」

「エトさん! あのね、僕はね……」

 私は、僕は、と子供達は口々に名前を言った。顔を見えないのに、楽しそうなその声から数人いるのは分かる。一体何人いるのか。子供はそこまで好きではないので、あまり関心がわかない。

「あ、ボクはヘンリクといいます。先程は失礼しましたエトワルトさん」

「エトでいいよ。あのさ、君『お守り』は大切にしろよ。またさっきみたいな目にあったらさ……」

「あの、その事なのですが、詳しく教えていただけませんか?」

「え、いいけど……長くなりそうだな。じゃあ、君は家にあがっていきなよ。でも子供達は早く帰した方がいい、オレと居ると変なことを言われるから」

「はあ、そ、そうなのですか? わかりました、子供達はすぐに帰しましょう」

 彼は不思議そうにそう言った。もうすぐ家に着くかという頃、彼は子供達に帰るように言った。気をつけて帰るように、日が暮れたら危ないのできちんと約束は守ること、それを言い聞かせて子供達を帰らせた。

「お邪魔します」と言って彼は家に入ってきた。言葉遣いといい、随分丁寧というか真面目というか。人を家にいれるのはいつぶりだろう。オレの状態が落ち着いてから看病に来てくれる人もいなければ、心配して見舞いに来る人もいない。きっとその頃以来だろう。とりあえず飲み物でも出しておけばいいか。いつも通りコーヒーを用意して出した。

「器用ですね。目には包帯を巻いているのにまるで見えているように……」

「見えているんだよ。黒い影として、輪郭としてな」

「見えて……そうなのですか。あ、あの。先程の事なのですが……今はまだ日が暮れていないので言います、アレはもしかして『デュハウント』だったのですか?」

「そうだよ。あそこには三体いた、そしてアレは君を狙っていた」

「貴方はそれが……見えるのですか?」

「……ああ。その代わり人の姿は見えない。今君がそこにいるのもな。見えるのは人影、人の代わりに街を行き交うのはアイツら、街全体もアイツらの影で出来ている。街の形は歪だ、空気だって全部、いや、この在り方がおかしいんだ。街自体…………いや、やめよう。この話をすると皆お前がおかしいと言う、誰も信じない」

「ボクは信じますよ。先程……この時間に、昼間に襲われたのは確かですから。貴方がスタスタと街を歩くのも、まるで見えているかのように振る舞うのも納得できます。見えているのだからそうなのでしょう」

「あ、ああ。初めて話を聞いてもらえたよ。オレはな、デュハウントに目を奪われたんだ。二回、襲われたらどうなるか知っているか? 二回目はな……」

「知っていますよ。僕もデュハウントに目を奪われた一人です」

「そうか、君もなのか」

「ええ。一度、ですが。能力の関係で視力はほとんどありません。けれど、眼鏡をかければ日常生活には差し支えないことがわかりました。奴らについては大切な人に教えてもらったのです。その人には、二回目に襲われると『もしかしたら死んでしまう』と言われました。その人とは、もうずっと会えていませんが」

「そうか。大切な人か。その『死んでしまう』というのは間違っていないかもな。一回目、奴らは視力を奪うだろう? 二回目はな、目を抉りとって持っていくんだ。死ぬっていうのは、きっとその時、そのままのことだろう。……オレも目を抉られて持っていかれたんだ。街の奴らは、オレが自分で目を抉った、気が違っている、なんて言うけどな」

 彼の表情も姿も全く見えない。空気が固まる、彼は言葉を失っているのか。同情されているのか。

「そうだ、人は見えないはずなんだよ。なのに、君が立ち上がるのを手伝ってくれた時、君の姿が見えたんだ。お守りを見つけた時に奴らは散った、その時には見えなくなったが……」

「待ってください、それは……お守りを持っていないと見えるということでしょうか」

 カタン、という音がする。

「あの……ボクのこと、見えますか? 今、机の上にお守りを置いたのですが」

「……見、える」

「え、あの……すみません、先程の事もあったのでしっかり持ちますね。ええと……」

「ってことは、オレは何だよ。これじゃあ……なんだ、奴らと一緒じゃないか? あの影と! あのバケモノと! 待ってくれよ、一体何なんだ。なんでオレばっかりこんな目に、なんで……」

 今まで信じていたものを裏切られる。何度も、何度も何度も何度も何度も。街の人には頭がおかしい奴だと言われ、今まで見ていた景色は嘘だったと見たくないものを押し付けられ、人を助けたら自分がバケモノなんじゃないかと意味のわからないことが判明する。まるで、信じていた自分までが、自分の存在までが嘘だったと言われているように。

「落ち着いてください!」

 その声に引き揚げられるようにして我に返る。同時に両頬を叩かれたようでジンジンと痛い。

「貴方しか……貴方しかいない! 奴らが何なのか、この街のこと、全部を知るには貴方の知識とその感覚が必要だ! もうこれ以上犠牲者を出さない為にも、子供達を守るためにも。貴方は化け物なんかじゃないではありませんか、落ち着いて」

 彼のその言葉に気圧された。勢いに、熱に、優しさに。あまりに優しすぎる、オレは自分のことで精一杯なのに。確かに彼の言う通りだ。これ以上犠牲者を出してはならない。オレは自分であることを失いたくない。

「……ああ。そうだな」

「よ、よかった。調べたいことがあるのです、その為に是非、貴方に手伝っていただきたい。また連絡をとりましょう」

「ま、待て。オレは『約束をすること』が出来ない、人の顔も覚えられなかったんだ。きっと目を奪われたことに関係している。だから……」

「では、それなら用のある時や手伝って欲しい時、ボクがここへ来ましょう。お守りを外せばボクのことが見えるのですから、間違うこともないでしょう?」

「そうしてくれると助かるよ」

「ではまた、失礼します」

 彼は帰っていく。扉が閉まる、足音が遠ざかる。気配が消える。何か大変なことに巻き込まれた気がする。離れたかったのに、もう知りたく無かったのに。彼と自分は、その原因を、その全てを明らかにしようとしている。

 

 行き着いた先は、ずっと見慣れない景色。もう逃げることも引き返すことも出来ない。そんな気分だ。近づいてしまうのはきっと必然なのだろう。死ぬまでずっと、考えることをやめるまでずっと、この苦痛は続くだろう。

 

 影が蠢く。誰も知らない街の輪郭が。オレはそれを掴まないといけない。

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