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第2章 5話​

 

 

 

 

 

 誰もが自分にとってのハッピーエンドを望む。生きている限り、幸せを願うのは当然のことなのだろう。

 

 彼の横で、髪に初夏の水色の風を受けながら、私は心の中でこう呟いて願う。

「アナタの記憶の中に残る私が、少しでも優しくありますように」

 こんな言葉、まるで呪いのようだ。こんな言葉を掛けても、こんな呪いをかけても、私はいつかきっと彼の記憶を消してしまうだろう。いつか絶対、そんな日が来る。だというのに、そんな傲慢なことを思うなんて最低だ、と自己嫌悪に陥る。記憶を消してしまおうとしているのは私なのに、なんて欲張りなのだろう。彼の中に、少しでも残っていたい、と思っているなんて。隣にいる彼は、私が心の中で唱えた言葉なんて知る由もない。私の方に顔を向けて、あの優しく灰色に曇った左眼と、透き通ったどこか遠くの国の海の様に輝く右眼を柔らかく細めて、彼はそっと優しく微笑む。愛おしいこの笑顔を、私はずっと忘れないでいようと思った。彼が笑顔でいられることを、ずっと守りたいと思った。

 

 こんな時になって、前に願ったことを思い出す。そんな欲張りな私。自分のことしか、自分の幸せしか考えられない私だから、こんな目に遭うのはきっと当然の報いなのだ。私は彼の記憶を消した。恐らく朝になると消えるだろう。時間がかかってしまうのは、消す分の記憶が多かったから。その記憶と、その時の感情と感覚を半分ほど消さないといけない。もし仮に思い出すようなことがあっても、それが全てに繋がらないようにする為に。デュハウントは、私の右眼だけを持っていった。何故片目だけだったのか、それは私にはわからない。右眼のあった場所にはもう何も無い。今はただ血が流れているだけだ。彼は、そんな私をずっと優しく抱きしめてくれている。

 影は消えたはずだ。もう大丈夫。

 

 そこにいるのは一体何だろうか?

 

 いや、消えていったように見えた。見間違うはずがない。では今、目に映るアレは何なのか。今、彼のずっと後ろにいるのは何だろうか。見覚えのある影、暗闇の色をした化け物。じっと静かに動かずこちらを見ている。それは、獲物を狩るタイミングをはかる獣のような、独特な雰囲気を纏っていた。もしかして、彼のことが見えているのかもしれない。彼が私を抱きしめてくれた時、お守りを落としたのかもしれない。私は彼に自分のお守りを渡した。白い鉱石の、彼が綺麗だと言ってくれたお守り。それを持つ彼の姿を、化物は捉えることが出来ないはず。

「ねえ、私が渡した物、ちゃんと持っている?」

「……え? ああ、大丈夫。ここにあるよ」

「よかった。貴方に持っていて欲しいの、ずっと、しっかり持っていてね」

 化物は相変わらず動かない。私の想像通り、彼の姿を捉えることは出来ていないのだろう。それは私達を見ているのではない。何かを待っている。私を見ている。彼には、「もう大丈夫、あの化物は近くにいない」と伝えた。最後の嘘をついた。彼は目がほとんど見えていないはずだから、それが嘘か本当かなんて確認することは出来ないだろう。本当は、私達の近くにあの異形が立っている。彼は私の言葉を信じてこの場を去る。怪我をした私の為に「とにかく、誰かを呼んでくるから待っていて」と、ふらふらとした足取りで彼は街の方へと向かって行った。彼は目が見えていないのに、こんな私に助けを呼んでくると言った。私は、彼がここから離れてくれるのなら、もう何でも良いと思った。それが私の望んだことだから。

 

 彼がこの場を去ってからもずっと、その化物は動かずにいた。彼はきっと戻って来るつもりなのだろう。それならば、この化物は、ここにいてはいけない。私を見ているのなら、私のことを追い掛けてくるかもしれない。私は立ち上がり丘を降りてみた。その化物は、一定の距離を保って私の後を追ってくる。丘を降りた先、街の反対側は小さな森のようになっている。この方角に行けば、きっとこの化物が街へすぐに戻ることは出来ない。彼が危険な目に会う確率は小さくなるだろう。私は走った。街の反対側へ、思い切り全力で走った。丘を降りた時は、ただ一定の距離を保って付いてきていただけだった。走って距離を離し始めた途端、逃げられると思ったのか手を伸ばして振り下ろしたり、突き刺すような動作をしたりして急に攻撃をしてきた。こんな化物と対峙し続けると頭がおかしくなりそうだ。あの、体に似合わない細い脚、ゴムベルトやリボンのように平たく長く、伸縮性のある腕。目の前の異形は、私をただ純粋に壊そうとしている。私が名前を呼んだから、私がお守りを持っていないから、私が走って逃げようとするから。化物はずるずると影を引き摺って私のことだけを追ってくる。地面に映る私の影が不自然に揺れた。伸ばされたあの不自然な腕が、研ぎたての刃物のように鋭く私の左上腹部を貫通したのだ。私が振り返るより早く、鋭く。防ぐ術なんて無かった。みるみるお気に入りの洋服が、木苺を押し潰したように鮮やかな色へと染まっていく。言い表せない痛みが、赤い色と一緒にじわじわと広がっていく。まるで、赤く熱された金属が刺さったかのように、熱くて痛くて、身体もずっと重い。けれど、私は止まってはいけない。ここにいてはいけない。もっと遠くへ行かないといけないのだから、まだ進まないといけない。ボタボタと落ち続ける血を無視して、刺さっている何かも無視して、思い通りに動かない身体を引き摺る。出来るだけ彼の居た場所から離れよう。もうあの場所へ戻ることは無いだろう。待っていてと言っていた彼の、その傍にいる資格なんて私には無い。少しでもいい、もっと遠くへ。彼の見えない所へ、彼の手の届かない所へ。死期の近づいた猫のように、誰も知らない場所へ。

 異形はずっと追ってくる。恐らく、これで彼に危険は及ばない。ああ、夜の森を歩くのなんて何時ぶりだろうか。これが……そう、ピクニックだったら、どんなに楽しかっただろう。彼と一緒だったら。わたしがたのしくうたなんかうたって。もう、頭が軽いのか重いのか分からなくなってきた。私は進んでいるのか、いないのかさえ。重たい衝撃。思い切り、ガラス瓶か何か硬くて重たい物で殴られような、そんな衝撃を背中に受ける。肺に詰まっていた空気が一気に吐き出されるのと同時に、視界は地面に激突する。うつ伏せに倒れた私に、後ろから鋭く尖らせたあの手を、私の胸郭目掛けて突き刺した。私の肺は血で満たされていく。声も出せなくて、もちろん息もできなくて、視界はだんだん真っ白で、音も遠ざかっていく。

 

 彼の記憶の中の私を、私は知ることが出来ない。でも彼を想って、願うことはできる。

「アナタの中に、記憶に残る私が、少しでも優しくありますように」

 

 そうして、私の世界は消える。

 

 

 

 私は一体何者なのだろうか。いや、何だったのだろうか。

 

 気がつくと私は、闇の中に倒れていた。さっきまで真っ白だった辺りは真っ暗、真っ黒。とりあえず身体を起こして座ってみた。息は吸える、身体はどこも痛くない。鏡は無いので見える範囲でしか確認出来ないが、とりあえずペタペタと身体を触ってみる。服は汚れても破れてもいない、綺麗なままだ。手も動く、足も問題ない。髪の毛も、朝整えた時のままのようだ。荷物は何一つ持っていない。着の身着のまま、といった感じだった。ただ違うのは、奪われた右眼はそのままだった。右眼のあった場所には何も無い、凹凸も何も。そこにあるのは、右眼があったのだろうというスペースだけ。

 そんな私に、誰かが近づいて来る。

「やあ、こんばんは。初めまして」

 右手を差し出されたので、思わず私も同じように差し出して握手をした。恰好はごく普通のもの、街の人達と変わりない。目の前にいるのは見知らぬ男。手を放して目線を上げた私は、その男と目が合った。瞬間、真っ黒な何かが頭の中を一杯にする。不安、恐怖、なんと言い表せばいいのだろうか。その男を見ただけなのに、息が吸えなくなった。相手を縛り付けて逃さないような目。きっとこれは、知ってはいけないものだ。見てはいけないものだ。ただ目を見ただけなのに、全身の血液を凍らされたように身体が動かなくなる。目を閉じても逃げられない。自分が無惨に殺されて、何者でもなくされて、魂の無い人形に、何も言えない死体にされる様子が瞼の裏を過ぎる。

 目を開いてもう一度見る。

 次は目が無くなった。顔も。男はただの影になった。真っ黒な塊の、形だけの影に。それは、周りと同じ真っ黒な色なのに、何故かその輪郭が分かる。その様子がただただ不気味だった。立ち上がって一礼した後、それは私に向かって話し掛けてきた。

「ごきげんよう。私はある理由があってここにいる。私は……恐らく貴女の思う通りのものだろう」

 そう言われても、全く見当がつかない。思う通りだと言われたって、こんな知り合いはいない。いや、私はこれを知っている。この黒い影は、このおぞましいものは一つしか知らない。しかし、なぜ男の姿なのだろう。

「……ねえ、私の右眼はどこへやったの? どうしてあの時、両眼を奪わなかったの?」

「それは、まだ貴女に仕事が残っている為だろうな」

「何をさせようと言うの?」

「私は、貴女の持つその『手記』を消す為に来たのだ。ほら、それだよ」

 そう言って私の方を指差す。私の手には持っていなかったはずの本が、その男の言う「手記」があった。見た目はただの古びた日記帳。だがこれはただの日記帳では無い。私の父が書いたこれを、私は「デュハウントの手記」と呼ぶ。これには、父が今まで調べた全てが記されている。私の父は、デュハウントについて調べていた。父は医者だったが、この街に不自然さを感じていた数少ない人の一人だったらしい。言い伝えやこの街について、ずっと調べていたというのを、これを読んで初めて知った。奴らの性質、「取り憑かれた人」のこと、この街のこと。そこには父が調べたこと、体験したこと、全てが書かれていた。私の知らなかったこと、知ってはいけなかったかもしれないこと全てが。

「それがあれば、仕組みに気付いてしまう人間が居るかも知れない。それでは私の『これまで』が無駄になる」

「仕組み? それは何のこと?」

「……知らないとでも言いたいようだが」

「…………」

「貴女はそれを読んだことがあるのだろう? 知らないはずがないと思うが」

「これは、私の父が書いたただの日記よ」

「おや、白を切るのかね」

「普通の人間が書いたこれに何の意味があるというの。これは、ただ日記よ。そこらにあるものと何も変わらないわ」

「では、その様な物ならば、無くなっても困らないだろう」

「……なぜそんなことを言うの?」

「それがあると、わかりやすく言えば『都合が悪い』のだ。勿論、力ずくでとっても構わないが……穏便に済ませたいだろう?」

 そう言って男は近づいてきた。床なんて、壁なんて見えない真っ暗な空間。楽しげに靴を鳴らして近づいてくる。男が手を伸ばせば、簡単に私へ手が届くだろう。反対に、私が立ち上がれば、一気にその間合いを詰めることができるだろう。

「……」

「さあ、渡してくれるね?」

「ええ、そうね………………そんなもの、渡すわけが無いじゃないの」

 私は立ち上がって一歩前に出る。男の顔に手が届いた、触れていれば「失敗することは無い」だろう。

「……『忘れてちょうだい』手記のことも、それを消そうとしていたことも全部」

「……なっ」

 奴らに力を直接使ったことは無い。成功するのかどうかも分からない。いや、成功させるしかない。失敗することは許されない。チャンスはもう二度とないのだから。

 空気が凍る。そこにあるのか、無いのか分からない空気が。少し間を置いてから、目の前の男がゆっくりと動き出した。

「……おや、どうしたのかね? 君は何をしている?」

「いいえ、何でもないわ。ただ、アナタの瞳はどこにあるのか探していたのよ。アナタこそ、どうかしたの?」

「いや、どうもしないさ」

 失敗したのかも知れない。しかし、もう何もすることはできない。私に方法は残されていない。もう流れに身を任せるしかない。

「そうだ、挨拶がまだだったね。やあ、こんばんは。初めまして。ごきげんよう。私はある理由があってここにいる」

 男は無駄に挨拶の言葉を重ねる。私は、その男から手を離してゆっくりと一歩下がった。

「そう、失礼したわ。急に触れたりしてごめんなさい」

「いえ、お構い無く。私は…………この時間に力を使った貴女の『目を奪う』為に来たのだよ」

 ああ、よかった。成功したんだ。男と二度目の挨拶を済ませた後にはもう、手記はどこにも無かった。目の前の男も、それを求めていない。あの手記はきっと誰かの手に渡る。いや、誰に見つけてもらわないといけない。もう、私にはどうすることもできないのだから。

「おや、既に右眼が無い様だが?」

「それは私が聞きたいわ」

「そうか。それでは……残念ながら、今は『夜』、我々の時間だ。貴女は力を使った。加えて……貴女はあの鉱石を持っていない」

「そうね、使ったわ。お守りは……そう、どこかに落としてしまったのよ」

「そうか」

「こんな風に会話をしてから奪うのは、いつもの事なのかしら?」

「いいや、これはイレギュラーなことだよ。恐らく何か別の理由があったのだろう。既に右眼がないこともその理由の一つだと思うが……はて、何だったろうか」

「さあ? 私の知ることではないわ」

 会話を終えると、相手は慣れた手つきで、右眼の時と同じように左眼も奪い取って行った。それには痛みも音もなく、まるで最初から取り外せる物だったかのように、当たり前のように持って行った。

 

 私は何だったのだろう。何故ここにいるのだろう。

 もう帰れない街のことを思い出す。大好きな風景、お気に入りの家具、街ゆく人々、大切な人。私が最後に見た夢は、大切な彼がいなくなる夢。明晰夢めいたそれは、大変気味が悪かった。目を閉じることが出来ない。逃げることは出来ない。見たくないものを、無理やり目をこじ開けられて、見ることを強要されているように感じた。誰かの言ったことを思い出した。私が自分の耳で聞いたのは、近くに住む老人が言っていたもの。これは、この街に住む人皆が言うことだ。「死ぬ時には、その自分が死ぬ姿を夢に見るのだ」と。私の見た夢は、それの一つだったのだろうか。

「目が見えないのは怖いか? 虚しいか? 暗いか? 冷たいか? 気味が悪いか? 不安か?」

「……」

「ああ、失礼。言い忘れていた、もうわかっていると思うが貴女は死んでしまったのだよ。そういえば、貴女には『死ぬ夢』を見せていなかったね。では……貴女は『本』を書いていないな? もしかして手渡されてもいないのでは?」

「…………」

「皆、死ぬ前に書くのだよ。面白いぞ、『本』というのは愉快だ。人間の一生は滑稽だ。全てを持たない者が生きていることは……」

「私はどうすればいいの」

「……話を途中で遮るなんて失礼な方だ。そうだな、貴女はイレギュラーだ。こちらの手違いで順番を間違ってしまった。まあそんなことはどうでも良いのだが。貴女が死ぬまでの物語は、こちらで書いていただこう。同じように、あんな風に」

 そこには机と椅子と紙とペン。何かを黙々と書く人達。

「さあ……」

 そう言って、男は私をこの机に誘導した。

 

 

 

――――私の物語はここで終わり。何故なら私は「死んでしまった」から。こんな風に、ここまで、「さいご」まで書き終えてしまったから。ハッピーエンドを望んだって、その結末を、その行く末を知らない私には、それがどうだったかなんて分かりはしない。私は、知ることが出来ない彼の幸せを祈って、綴るのを終えようと思う。

 

「彼が、ずっと笑っていられますように。彼が幸せでありますように」

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