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第2章 7話​

 

 

 

 

 

 気付いた方が幸せなのか、気付かない方が幸せなのか。

 そのことさえ考えないこと、きっとそれが一番幸せだ。

 

 

 

 つい、二日か三日ほど教室を休んでしまった。最近は眠れない日が多すぎて日中に動けなかったためだ。いい加減頑張れと家族にたたき起こされ、今俺は教室へ向かっている。俺の行く時間は昼過ぎからになっていた。夕方までの三時間、勉強をする方にだけ参加している。たしか、皆はその前に剣を習ったりしているのだと思う。勉強を教えてくれる先生は知り合い。歳もあまり変わらないはずなので名前で呼んでいるが、別に先生と呼ばなくてもヘンリクは怒らない。今日はヘンリクと何の話をしようか。いつものように俺は、講堂の扉を開けながら元気よく挨拶をする。いつも通り、優しそうで真面目そうな彼がそこに……いなかった。そこに居たのは見慣れない顔。

「あれ? ええと……新しい先生?」

「そうさ、君が来なかった間に、勉強を教えるのは二人で交代してやることになったのだよ。もう一人は……名前は何だったか。あの眼鏡をかけた灰色の髪の、真面目そうな青年さ」

「ああ、それってヘンリクのことだよね」

「そう、ヘンリクだ。君は……」

「俺はリニュスだよ」

「そうか。こんにちは。初めまして、リニュス。私の名前は……ニッツだ。私はヘンリクの代わりに、ここで勉強を教えることになっている。これからよろしく頼むよ」

「そうなのか! うん、よろしく。ニッツ先生」

 少しだけ話をする。他愛ない会話だ。その会話のおかげで、新しい先生がどんな人なのか少々わかった。いや、そんな気がするだけかもしれない。とりあえずわかったこと。まず、彼は笑顔が苦手そうで、全く笑わない。それにすごく目が細い。あれは見えているのかな? おっと、これは余計なこと、言わないように注意しよう。そんな感じなので、顔はよく見ると怖いかもしれない。それから、話し方は少し固くて、冗談は言わないタイプ。真面目、と言うよりお堅い感じがする。それと、前は研究者だったらしい。雰囲気からそれはものすごく納得できる。そんな人がこの街に居たなんて知らなかった。前の先生は……あれ、ヘンリクの前は誰だったろうか。いや、前などあったっけ。

「先生、研究者だったって聞いたけど、何の研究をしていたの?」

「それは内緒さ。まだ教えられないのだ」

「ふーん、まだ、か。そう言うならいつか教えてくれる日を待っていようかな」

「ああ、そうしてくれ。そうだリニュス、この時間は君も含めて何人なのかね」

「え、そうだな……同い年くらいの奴らだから……五、六……十人かな」

「そうか。ありがとう」

「……うーん……なあ先生、先生はどうして先生をやっているの?」

「そうだね。…………ああ。そう、頼まれたのだよ。偶々、ね」

「そうなんだ。優しいんだね、それとも子供好きなの?」

「ああ、特に君みたいな元気な子は大好きさ」

「俺は全然子供〜って感じの大きさでは無いけどな。何だろう……とりあえずありがとう?」

「君は面白いね。君の様な子を見ていると、ここに来て良かったと思うよ」

 面白いね、と言いながら先生は少しも笑っていなかった。少し不気味ではあるが、何だか面白い。まあそんなのも含めて、とにかく誰かと会話をするのは面白いのだ。今はまだ俺しか来ていないが、教室にはたくさんの生徒がいる。その中でも俺は、皆より少しだけ早く来るようにしていた。皆は今、俺と違うメニューをこなしているので、合流するのはもう少し先になる。早く来ている理由は、ただ単に誰かと話すことが好きだから。少し早く来ると先生と話すことが出来る。先生って言うのは面白い。勉強は嫌いだが、先生と話すと新しいことが分かるし、世界が広がる気がするのだ。それから、早く来ている分時間に余裕があるので、勉強が始まる前まではずっと、パラパラと集まった皆と話すことも出来る。遊びの話だったり、最近はまっているものについて教えあったり、そんな風に皆と雑談をするのは大好きだった。

 開始の時間が近付いて、皆がパラパラと集まってくる。

「よお、リニュス。久しぶりなのにいつも通り早いな。本当、そんなに早いならこっちにも出ればいいのに」

「いやあ、皆にはなんだか悪いけどさ、俺は剣なんていいよ」

「こんにちはリニュス、どうして休んでいたの?」

「こんにちは、ただの体調不良だよ。心配してくれてありがとう」

「あ、どうしよう。わたし本を忘れちゃったみたい……誰か貸してくれない?」

「私の一緒に見る?」

「本当⁉ ありがとう!」

「おっちょこちょいなの? それとも、うっかりさん?」

「もう、リニュスくん一言多いよ」

「あ……ご、ごめん」

 人数は俺も入れてしっかり十人。そうこうしている内に、皆が揃ったようだ。皆と一緒にする勉強の時間は、あっという間に終わっていく。

 

 今日は違う道から帰ろうかな。たしか、こっちの道にはお守り屋あったはず。自分のお守りは、いつも肌身離さず持っているけれど、売り物を見るのは綺麗なので好きだった。この街の言い伝えで皆はこのお守りを持っている。皆が持っているからお守りの販売はあまり需要がないようで、店に顔を出すのは数人の物好きと、ごくたまにいるお守りをなくして慌てている人と、それから暇な俺くらいだった。

 今日は先客がいた。この辺りではあまり見ない女の子。この辺りの子供は皆教室に通っているから、時間が違っても顔見知りだ。しかし、目の前にいる子は一度も見たことがない。年下に見えるが、教室には通っていない子だろう。

「これ一つくださいな!」

「はい、これね。プレゼント?」

「そうよ、妖精さんに渡すのよ! いつも私の髪留めを褒めてくれるお花に住む妖精さん!」

「え、何言っているんだお嬢さん……まあ分からないけど、とにかく、これを包めばいいかな」

「お花の包み紙がいいわ、きっとそうよ。お花は素敵よ、綺麗よ、私にいつも話し掛けてくれるのよ!」

「あ……そ、そうなんだね?」

「あらあ? ここにもお花を置いているのね! はじめまして、可愛いお花さん。あら? あらら?」

「え、えーと……お、丁度いい所に! おい、リニュス! お前ちょっと寄って行かないか?」

 店長は、「この子の相手は手に余る、助けてくれ」と目で訴えてくる。確かに、遠目で先程から黙って聞いていたが、彼女はずっと妙なことを言っている。妖精がどうだとか何とか。はっきり言って、彼女の相手なら俺も手に負える気はしない。

「こんにちは店長。また新作?」

「あ、ああ。そうなんだ、いつも通りの自信作さ。これとかな」

 店長は、自信作と言うそれを見せながら、助かった、といった表情を浮かべている。目の前にいる子はお構い無しに一人で意味のわからないことをずっと話し続けている。時々、手に持っている花の咲いた小さな鉢植えに話しかけながら、彼女は包み終えるのを待っていた。なんともちぐはぐな、居心地の悪いような空間だった。

「おまたせ、これでいいかな」

「ありがとう、これでお花さんも妖精さんも喜ぶわ!」

 最後までよく分からないことを口走って彼女は帰っていった。お守りを買いに来るなんて珍しい。なぜお守りを買いに来たのだろうか。彼女の様子を見たかぎりでは、その理由はよく分からない。彼女もお守りを失くした一人なのだろうか。

 

 家に帰ると、いつも通り家族が迎えてくれた。それから、いつも通り家族の団欒に参加して、食事をとって、入浴して、寝る前にお気に入りの本を読む。そして、また眠れない夜が来る。夜に眠ることは、もうほとんど諦めている。見えない「不安」が去って朝になると、俺はようやくゆっくりと眠ることが出来るのだ。安心して二度寝した後、今日も教室に行く時間になる。

 

 今日は間違わない。ヘンリクではなくて、新しい先生、ニッツ先生がいる。いつものように講堂の扉を開ける。

「やあ、こんにちは。ええと……」

「リニュスだよ、ニッツ先生。こんにちは」

「ああ、リニュス。こんにちは」

 いくつか会話をして時間を潰した後、もうそろそろ始まる頃だ。だというのに、今日は全員集まるのが遅い。人数を数えたところ、まだ二人来ていないようだった。

「先生? 二人来ていないけれど」

「そうか。じゃあ全員揃ったな。二人は、今日は休むそうだよ」

「そうなんだ」

「……ああ。では皆で勉強をしようか」

 変わらない日常。一定に時間は過ぎる。昼過ぎに来て、皆と、先生と会話して、夕方には家に帰る。いつも通り夕飯を家族でとって、いつも通り夜は眠れない。目を覚ますと教室に来る。そしてまた昼過ぎに来て……それの繰り返し。もちろん、何も変わらない。

 

 次の日も次の日も、俺はいつも通り教室に行く。どのくらい経っただろうか。俺はすっかり、あの新しい先生にも慣れていた。

「こんにちは、先生」

「やあ、こんにちは。ええと……」

「いい加減名前を覚えてくれよ。毎回じゃないか。俺はリニュスだよ」

「ああ、リニュス。こんにちは。では始めようか」

「うん」

 あれ、何か大切なことを忘れている気がする。

「今日は昨日の続きだ。これを覚えているかね」

 ここに来るのは俺一人だったっけ。いや、そうじゃない。もっといたはずだ。

「……ねえ、先生。皆どうして来ないんだ?」

「どうしてって? それはね、皆はとっくの前にいなくなってしまったんだよ、リニュス」

「…………え?」

「気付くのが遅いよ、リニュス。……ああ、君みたいな子は本当に面白いな」

「何を言っているの、先生」

「……」

「せ、先生?」

「…………」

 彼は黙ったまま、じっとこちらを見ている。どうしていいか分からず俺は目線を下げて考える。何かがおかしい気がする。「気付くのが遅い」? 一体何の話なのか。ぱっと目線を上げると、目の前には彼の伸ばした手があった。俺は思わず仰け反る。ガタンと盛大な音を立てて、そのまま椅子から落ちてしまった。辺りはしんと静まり返る。その間も彼は、俺からずっと目を離さなかった。俺は、なんだかこのままここにいてはいけない気がした。ゆっくり立ち上がり、後ずさりをして講堂をでる。彼は、追ってくるような素振りは全く見せなかった。俺は歩く。講堂を出たはいいが、どこに行けばいいのだろう。とりあえずここからは離れよう。早歩きで、急いで。誰のところへ行けばいいのだろう。俺の話を真面目に取り合って聞いてくれそうな人。そうか、ヘンリクを探そう。俺は走る。彼のいると思われる場所を探す。剣を教える場所、にはいなかった。行きつけの店……ここにも居ない。彼のお気に入りの場所……こんなところには今の時間にはいないだろう。全くどこにいるのか、早く見つかってくれと思って走り出した時、目の前にいた誰かにぶつかってしまった。相手はそのままバランスを崩して転倒してしまった。急いで謝って立ち上がるのを手伝う。

「あ! ご、ごめんなさい! 大丈夫ですか?」

「ああ、大丈夫」

 転倒した男性を立ち上がらせるのに、その男性の隣にいた人が手伝ってくれた。

「ごめんなさい、ありがとうございま……あれ?」

「あれ、リニュス? 今は確か教室の時間……いや、そんなことを言っている場合ではないですね。でもどうしてここに?」

「ヘンリクこそ何でここに……ずっと探していたんだ。ヘンリクなら聞いてくれると、知っていると思ったんだよ。……み、皆教室に来なくて、皆いなくなったって言われたんだよ」

「そっちの時間もそうなのか」

 先程転倒した男性に話し掛けられる。彼は俺の方を見ずに話す。よく見ると、目には包帯を巻いていた。俺は怪我人を転ばせたのか。

「うん、そうだよ。……この人は?」

「ああ、彼はエトワルトさん。ボクの友人です。エトさん、彼はリニュスです。元気で明るくて良い子なんですよ、彼もボクの所に通っている一人です」

「見えないが、誰かいるんだよな? ぶつかってきた奴……お前も教室に通っているのか、そうか」

「ぶつかったのは本当にごめんなさい……」

「いや、悪い。そういうつもりで言ったんじゃないんだ。俺も不注意だったよ、悪かった」

「いや、大丈夫。あと……あの、聞きたいことが……さっき言っていた『そっちの時間も』って何? 朝の方もそうなの?」

「そうです、最初は数人の休みだったのですが……」

 ヘンリクが言うには、子供達は数人ずつ来なくなっていて、その子供達については休みだと連絡が入っている。それが始まったのは今月に入ってからのことだそうだ。休んだ子供がその後来ることはなく、教室へ来る子供の人数が日に日に減り続けている。そして、それは今日までずっと続いているとのことだった。不審に思ったヘンリクは、朝の方の教室を休みにしたそうだ。

「それだけじゃない。君、ここまで来るのに気が付かなかったのか?」

「何を?」

「子供だけじゃないんだ。ヘンリクが言うには街の人も少なくなっているらしいぜ。君、目が見えるんだろう?」

「……え」

 夢中で走っていたので気が付かなかった。言われてみると確かに、この時間にしては行き交う人の数がいつもより少ない気がする。こんなことにも気が付かなかったなんて。気が付かなかったのはきっとそれだけじゃない。ニッツ先生にも「気付くのが遅い」と言われた。心当たりは全くないが、あの言葉は妙に引っかかる。もしかして、まだ知らないことが沢山あるのではないか。そう思うと、あの夜眠れない時と同じような、どこまでも深く落ちていくような不安を感じた。その不安のせいで頭の中がごちゃごちゃになって言葉が見つからなくなる。なにか言おうとして言葉を探し黙っていると、ヘンリクが気を遣って言った。

「あ、いいんですよリニュス。気にしないで」

「う、うん」

「あと、エトさん。そっちじゃないです、リニュスは貴方の背中の方にいますよ」

 そう、彼は出会った時からずっと俺に背中を向けたまま話している。

「え、反対? 見えないから分からないんだよな、悪い。リニュス……だっけ?」

 そう言ってエトワルトは振り返る。

 振り返った彼は、俺の方を見てその表情を曇らせた。彼は俺の方を指さしながら、少し声を震わせて言う。

「……お、おい。君……『それ』大丈夫なのか?」

「え、何?」

「………………いや、何でもない」

「え? え?? 何? エトさんは何か見えちゃう感じの人なの? 霊能者的な?」

「違うよ」

「違いますね」

「面白いな、君」

「リニュスは面白いですよ」

 二人はそう言ってくすくすと笑っている。それは、馬鹿にした感じではない。温かいこの空間は、なんだかくすぐったい感じがする。とても安心する。誰かと笑い合える、会話はこうでなくちゃ。

 

 いや、何を安心しているのか。

 

 そんな場合ではない。不安なことが、わからないことが多すぎて、きっと無理やり考えないようにしてしまったのだろう。彼、エトワルトは何が見えたのだろうか。ニッツ先生は何故あんなことを言ったのか。俺に何をしようとしたのか。底なしの不安。急に冷や汗がでてくる。視界が揺れる。体が強ばる。息が苦しい。

「……ス、リニュス! 大丈夫ですか」

「……………ッ! ……だ、大丈、夫……です」

 二人は顔を見合わせていた。もうそんなのもどうでもいい気がした。

「ご……ごめんなさい、俺、帰るよ」

 二人はなんだか気に掛けてくれて色々声も掛けてくれたけれど、もうよく分からなかった。

 

 

 

 俺の耳に残ったもの。離れ際に聞こえた二人の変な会話。

 

「エトさん、あの……さっき何を見たんですか?」

「…………あ、ああ。あいつらが居たんだよ。リニュスの後ろに、数え切れないほどの眼を敷き詰めたあの影が――――――」

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