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第3章 3話​

 

 

 

 

 

 約束というものは果たせない。絶対などというものはどこにも無い。そう思っていた、ずっとそうだった。
 だからオレは、それが嫌いだった。

 目の前の少年を、淡い色の髪をした彼が引き揚げる。少年を助けた方がヘンリクなのは分かる。彼が腕を掴んでいる方がリニュスなのだろう。街の人々の形を捉えられないオレが、彼ら二人の姿を見られるのには理由がある。
 姿が「見える」、「見えない」というのは、視力の問題ではない。視力のことでいえば、今のオレの世界には光などありはしない。
 理由として、第一にヘンリクについて伝えよう。彼はオレが「見えない」ことを知っている。オレと話す時には、ヘンリクはいつも大切に持っているお守りを外す。今のオレは、お守りがあると対象の姿が見えない。それは、例の影の化け物たちも同じだ。「お守り」を持っていなければ姿が見える。お守りは、人が化物から身を隠すための道具であるのだ。オレは今、姿形は人の容姿を保っているが、内実は化物たちと近しいらしい。
 次にリニュス。彼はオレが「見えない」ことを知らない。かく言うオレも、こう不便になってからヘンリク以外の姿を見たのは初めてだ。彼の姿が見えるということは、彼がいつも肌身離さず持っていたはずのあのお守りは効力を為していない状態であるのだろう。しかし、彼がそれを手放すはずはない。「お守り」は鉱石であり、通常、欠けのないそれのみが効力を発揮する。そうなると、彼のそれは今、壊れているのだろう。
 それも仕方が無い。いや、必然だ。目の前の状況を見れば分かる。オレたちが対面するもの。あれは何なのだろう。あの化け物が、例の「新しい先生」だと言うのか。影達の中心に立つのは、更に深い色の影。ヘンリクやリニュスには、あれが一体どう見えていたというのか。あんなものは「先生」でも、ましてや人間でもない。あれはただの、言葉の通りの化物だ。

「リニュス……!」
「うあ……う……嫌だ……嫌だ! あ、悪夢が! 迫ってくるんだ、影が、声が、視線が!」
「……大丈夫、大丈夫。約束したじゃないですか。ほら――」

 そうだ。オレは約束をした。
 オレも随分恥ずかしいことを言ったものだ。「オレ達がついている」だなんて。

 ああ、最後に約束を果たせたのはいつだっただろう。

「おや、随分と珍しいものが……一人、二人……三人かな?」

 氷を首元に滑らせたような感覚を覚える。冷たい空気が発せられる先に目を向けると、目の前に対峙するものの足元の影に潜む瞳が、まるで品定めでもするようにオレ達を見ていた。中心に居るモノはヒトの形を模しているつもりのようだった。薄く延べられた腕らしきもの、その先端には指のようなものまであった。あの影の化物にもそれは存在するものではあるのだが、使い方という点では異なっているように感じる。目の前のモノは、人でいえば人差し指にあたるであろうものを持ち上げ、順にオレ達を指していく。
 持ち上げられた指先は、最初にオレを指した。周りの瞳も一斉にオレを見る。息が詰まる。リニュスの言うように、これは悪い夢のような光景だ。だが、この感覚を知らない訳では無い。オレは一度死んでいるようなものだ。今更何があっても怖くはない――いや、そう言い切れればよかったが、言い切れないオレはどうも意気地無しらしい。死ぬのは惜しい。死にたくない。目の前の影に指を刺されたからとて死ぬわけではないのだが、その行為は死を予感させるほどのものだった。

「君は……興味深いな。だが、後回しだ」

 オレは冷たくあしらわれた。しかし安堵する暇はない。
 目の前のモノは指先を滑らせる。次に指されたのはヘンリク。影に潜む瞳たちも、それの指す方に立つヘンリクをじっと見つめている。その指先はしばらく動かなかった。しばらく、というのはオレの主観だ。自分の時よりも長く留まっていた気がするだけなのかもしれない。オレの隣にいるヘンリクは、後ろに手をついて座り込んだ姿勢のままのリニュスを庇うように前に立っていた。

「ほう。探していたもの達が、こうも簡単に、次々と現れてくれるとは。君は有用だ。回収せねばならないが――」

 再度その指先が動かされる。次に指されたのはリニュス。

 リニュスは取り乱したままだ。しゃくりあげるような引きつった呼吸。見開いた瞳からは涙がこぼれる。逃げ出したくても逃げ出せない、助けてと言葉にすることも出来ないでいるのだろう。今の彼には言葉を発する余裕などない。胸元にあてた手は、服を強くにぎりしめている。

「でも、そうだね……青い目が二つ揃った君、愛しい可哀想な子。私は君が、君の目が一番欲しい」

 その言葉を聞いた直後、過度の恐怖と緊張からか、リニュスは糸が切れたように崩れ落ちた。背を向けているヘンリクがリニュスに気付くには時間がかかるだろう。オレは急いで屈み、リニュスが頭を打たないよう支えた。

「あっ……! リニュス!」

「君達が来たところで何が出来るというのか。全員で私に“喰われに来た”のかね?」
「……いいえ。そのつもりはありません。貴方の方こそ、何が出来るというのでしょうか。今は陽が出ている。現在の時間帯……これを考えれば、貴方は我々に触れ干渉することは不可能なのではないですか?」

 ヘンリクが言ったこと、それは正確に言えば正しくない。
 事実として、今オレがリニュスに触れ支えている状況だ。目の前の化物が触れて干渉することが出来ないという可能性は低いのではないだろうか。オレがこうも簡単に出来ていること。その程度のこと、目の前のアレに出来ないはずがない。
 化物は黙り込んだ。
 我々と化物の距離は遠くない。その中で手を出さず言葉でのみ干渉してくるあたり、奴はきっと慎重な性格なのだろう。それか、ヘンリクの言う通り、こちらに触れることは叶わないのかもしれない。
 目の前にいるものは、いつものものとは違う。
 いつものちぎれた街の影達とは違い、正しいとはいえないかもしれないが思考する術を持ち合わせている。言語でのやり取りも出来る。それは人を模した姿をとり、人間と言葉を交わすことが出来るということだ。オレにはただの化物、いつも通りの影の一個体にしか見えない。これはなかなかに厄介だろう。

「……好きなように。どちらにせよ、私が君達をどうするかなど、この手を……いや、指を振れば済むこと。つまるところ、君たちには逃げる場所も助かる望みもないのだ。それを、努々忘れないことだ」

 そう言いすてると、化物は沈むように地面に溶け消えて行った。


 冷え切った空気は、陽に照らされて熱を取り戻していく。その空間の中でオレ達だけが取り残されていた。

「…………ふぅ。とりあえず何とか……なったわけじゃあないけれど……」

 目の前の異形は去った。だが脅威が去ったわけではない。
 まだ目の前に問題はある。いや、問題しかない。

「リニュス! リニュス、大丈夫ですか! リニュス……!」
「おいおい、ヘンリク。そういう時は乱暴に扱っちゃダメなんじゃないのか……?」

 ヘンリクは大変焦った様子でリニュスを揺さぶっている。リニュスの方から返答はない。ただ揺らされる体に置いていかれた頭が転がるように揺れるだけだ。ヘンリクの腕を掴んでそれを止める。

「だから落ち着けってヘンリク。大丈夫だろ。気を失ってるんだろ? ほら、わかりやすく言えば寝ているだけだと思うから――」

 彼はここに自ら歩いてきた。
 今の状況をみる。
 ここに居るのは三人。気を失って動けないリニュス。あたふたしてなんだか落ち着かない、いつもより頼りないヘンリク。そして目の見えないオレ。
 あんなにヘンリクに揺さぶられていたのにぴくりともしないリニュスは、まだしばらく目を覚まさないだろう。
 ヘンリクはまだ混乱しているようだ。彼は、どうしたら落ち着きを取り戻すだろうか。彼の慌てようには鬼気迫るものがある。目の前の光景をみているようでみていないような、今起こっていることを通して何かを見ている感覚だ。彼にもそれが何か分かっていないようだが、なんとか説得すれば、ヘンリクはどうにかできるだろう。

 我々は、リニュスをどうにかして運ばなくてはならない。

 人一人を運ぶのは、なかなかの重労働だ。オレかヘンリク、どちらかの部屋にまで連れていくにも結構距離がある。どちらかと言えばヘンリクの部屋の方がここからは近いかもしれない。

 オレは約束が嫌いだ。
 いや、オレが嫌いなのは、約束を守れない自分なのかもしれない。

 リニュスの安心したような表情をみて、オレも安堵した。

 交代で背負って連れて帰る道すがら、一人の少女に遭遇した。 
 一言で言えば、彼女は変わっていた。
 オレの目では彼女の姿を捉えられなかったが、鈍い音と叫び声は嫌なくらいしっかりと耳に届く。少女は壁にぶつかりながら歩みを進め、その度に激昂して何かを叫んでいるようだった。ヘンリクとオレは、リニュスと自分たちのことで手一杯であるのだが、今その少女を放って置くわけにはいかない気がした。

 ヘンリクと交代してオレがリニュスを背負う。彼女が居るのは分かるが、どこにいるのかまでは分からない。見ることが出来るヘンリクにそれを頼む。

「……大丈夫ですか?」

 ヘンリクは心配そうに声を掛けた。それはいつもの彼であった。落ち着いた、余裕のある振る舞い方だ。

「はあ? 大丈夫なわけがないじゃない。コレのどこが大丈夫だっていうのよ! 貴方ね…………あ……」

 二人の声が止まる。顔見知りだったのだろうか。オレには知ることの出来ない沈黙が流れる。

「君、前に会ったことが……それは、ああ……酷い怪我をしているじゃないですか。手当は――」

「あら、お久しぶりね。生きてもう一度会えるとは思わなかったわ、お兄さん。貴方は人が良いからダメかと思っていたけれど……」
「とりあえず、手当をしよう。一緒においで」

 ヘンリクは、さあ、と手を伸ばす。パシン、という音が聞こえたということは、彼女はその手を振り払ったのだろう。

 

「私はあの時、死んでいたかもしれないのよ。でもほらこの通り。残念なことに死ぬことはなかったけれどね」

 
 彼女は不服そうに言い捨てた。
 その言葉の隙間からは、するすると布をほどく音がする。

「元の形が分からなくなるほど粉々になったのよ、わかる? いいえ、違うわ。お守りではなくて私の心の方よ」

 彼女の持っていたお守りは、刃物で切られたように、綺麗に二つに別れているらしい。
 砕けて二つに別れた鉱石。一つはそのままの形を保っていたが、もう片方は踏みつけたように砕けていたという。その鉱石を見ることは出来ないが、ヘンリクがそういうのだから合っているのだろう。そして、その粉々に砕けていた片方は、おそらく彼女が踏みつけたのだとオレは思う。その鉱石は、お守りでもあり、彼女のプライドそのものでもあったのだろうと。

「どうして包帯を外したの」
「邪魔だからよ。手当をしてくれるのでしょう?」

 彼女の言葉の節々には刺がある。他人を傷つけるのを厭わない鋭い棘だ。そして、彼女はそれをわざとしているようだった。
 彼女は、優しさに触れることに反発しているように思えた。わあわあと騒いでいた彼女が大人しくなる。きっと手際のいいヘンリクに大人しく手当をされているのだろう。

「……君は他人が嫌いなのか?」

 つい、思っていたことが口に出てしまった。別に彼女を傷つけようと思ったわけでない。ただの好奇心であるといえばそれまでだ。なぜ、そうも荒んでいるのかが気になった。
 彼女は机を思い切り叩きながら答える。

「嫌いよ! 皆嫌い、大嫌いだわ! 皆、この街と一緒に死ぬのよ。それを分かっていて、それを知らないでいても、皆そのままだわ……」

 彼女の声はすぼまっていく。それまでの勢いは消されて、悲しみに沈んだような声色だ。ヘンリクはいくつか声をかけたが、彼女から言葉は返ってこなかった。
 二人の会話を耳に滑らせながら、オレは自分の中に意識を向ける。

「この街と一緒に死ぬ」

 彼女のその言葉が、その言葉だけが、込み上げてくる覚えのある不安を抱えたオレの中に残る。その不安を増長させるように、言葉はオレの中で消えなくなった。

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