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第3章 6話​

 

 

 

 

 目に映る世界はいつも変わったことばかりのように思える。ありふれたものに意味があるように、失われた半分の色にも、きっと意味があるのだろう。
 今日のおつかいはお野菜だけだったかな。かごに入れたメモ紙を開いて確認しようとしたとき、私は誰かにぶつかってしまった。

「――おっと。大丈夫かね?」

 まずは謝らないと。しりもちをついた私は、ぶつかってしまった相手をそのまま見上げる。その人は私よりとても背の大きい男の人で、丈の長い暗い色の服に、白の上着を羽織っている。この街ではあまり見たことがない服装をしていた。
 その人は私に優しく手を貸してくれた。会ったこともない男の人。この人のことなんて何も知らないはずなのに。私はなぜか、この人は「ルド先生と似ている」と思ってしまった。

「君はどこかで――」

 上から降ってきた声は確かにそう言った。さっきまで感じていた懐かしい何かをすべて取り去ってしまうような冷たい声。私は驚いて顔を上げた。

「ああ、そうか。君はヘンリク先生の生徒だったね。挨拶が遅れてしまった。ごきげんよう、こんにちは。私は……私の名は、ニッツと言う。ルド先生の後任だ。ぶつかってすまなかったね、怪我はなかったかな」
「こちらこそごめんなさい。私は大丈夫。ええと……ニッツ、先生?」
「そうか、良かったよ。その奇麗な瞳に傷でもついたら一大事だ。それでは気をつけて」
 
 私が返事をした時には、もうニッツ先生の姿はなかった。それどころか、私のほかに通りに居たのは誰もいない。さっきまではもっと人がいたと思ったのに。そういえば、家で待っている私のおじいさんも「最近は、道を行く人の数が少ないようだ」と言っていた。なんだか道が寂しそうに見える。
 それなのに、どうして私はニッツ先生とぶつかってしまったのだろう。 
 考えるとあたりが冷たくなったように思えてしまった。
 早く家へ帰ろう。帰るまではまだまだ気を抜けない。気合を入れ直して進もう。そう自分に言い聞かせた時だった。

「ねえ! 待って、お嬢ちゃん!」

 突然声を掛けられた私は、きっと脅かされた猫みたいに跳ねたと思う。
 私に話しかけてきたこの人のことを、私はよく知っていた。明るく弾むような声だけれど、どこかさみしそうにも聞こえる。初めて会った時は、種を蒔いた鉢植えを抱きかかえていて、それを私に渡していなくなった。

「やっとみつけた! あなたがスイちゃんでしょう? あの人に聞いて、あなたに会いに来たの。あの人の名前はなんだったかしら、眼鏡をかけていて……なんだか難しい物言いをするふわふわしている人よ! あと赤髪の茶髪の怪我人が一人ずついたわ」
「リニュスくん怪我をしたの?」
「リニュス、くん? さあ。私には分からないわ」

 振り返った先にいたのは、たしかに以前会ったことがあるあのお姉さんだった。でもその姿は前と随分変わっていて、血がにじんでいる包帯姿はひどく痛々しかった。
 リニュス君というのは、私と同じ教室に通っている年上のお兄さん。いつも眠そうにしているけれどとっても優しくてみんな彼のことが大好き。一番年上の彼は、私たちみんなのお兄ちゃんのようだった。けれど、ルド先生が居なくなってからリニュス君とは滅多に会わなくなってしまった。前はルド先生が全部担当していたものを、二人の先生で分けることになったらしく、私はヘンリク先生の方へ、リニュス君は新しい先生の担当する方へ通うことになった。リニュス君とヘンリク先生が、お姉ちゃんと知り合いになっていたことには驚いた。

「今日はね、スイちゃんに頼みたいことがあって来たの。あれ、私自己紹介したかしら」
「ううん」
「そう……私、リリヤよ。改めてよろしくね、スイちゃん!」

 この話は少し長くなるからと言われたので、広場のベンチに行くことにした。適当な場所に座ると、リリヤさんは手帳を取り出した。それは前にみたものとは違う手帳だった。表紙や中の紙の色が変わっていたので、とても古い物なのかもしれない。リリヤさんはその手帳をパラパラとめくりながら、いくつか質問をしてきた。デュハウントに襲われたことはあるか。それはいつのことか。そのとき住んでいた場所は。デュハウントに襲われ、目を攫われたあと視力に変化はなかったか。今までと違う「変わったこと」ができるようになったり、聞こえたり見えたりしたことはあるか。聞かれたことには全部答えたけれど、質問の意味はすこしも分からなかった。
 私がデュハウントに襲われたのは四歳の頃のことだったらしい。その頃の私はお父さんとお母さんと一緒にこの街に住んでいた。あの日デュハウントに襲われてから、右目で見る世界からは色がひとつもなくなった。同じように、瞳の色はなくなってしまった。それ以外は何も変わっていないと思う。今は十二歳だけど、小さい頃のことはあまり覚えていない。全部、いま一緒に住んでいるおじいさんとおばあさんが教えてくれた。私が五歳になってからずっと一緒に暮らしている。お父さんとお母さんとの思い出はあまりない。抱きしめてほしくて近づいた私を払いのけて、「気持ち悪い」と言ったお母さんの声だけは覚えている。お父さんとお母さんは、きっと私のことが嫌いになったのだと思う。だから、私を捨ててどこか遠くへ行ってしまった。

「スイちゃんはおじいさんとおばあさんのことが大好きなのね。きっとたくさん愛されて今日まで過ごしてきたんでしょう。かごの中身はお野菜? おつかいの途中だったの?」
「そうなの。今日は私がお買い物にきたの。おばあさんがちょっと腰を痛めたんだって。心配だからお手伝いしたくて」
「お利口さんね。それじゃああんまり長く引き留めておくとご家族が心配するわね。でも、もう少しだけいい?」

 リリヤさんは手帳を開いて渡してきた。開かれたページには、文字がびっしり書かれている。それも何ページか続いているようだ。どうしたらいいのか迷って、リリヤさんの顔を見てみた。包帯まみれのリリヤさんはゆっくり微笑んでから「読んでみて」と言った。


◇◇◇


 昔、ここが今のような街になる前。この辺りは鉱石の採掘で盛んだった。
 鉱夫たちの間では妙な噂が流れていた。坑内の奥深くで火を灯しながら作業をしていると、それを邪魔するように影の化け物が出るのだとか。しかし、その化け物を目にしたものは一人もいない。化け物にまつわる噂話は、酒のあてにはならないほどつまらないものだった。だが、噂話はみるみる広まっていった。やがて、影の化け物を実際に見たという者も現れた。化け物なんて突拍子もないものを持ち出して興味をひこうとしているに決まっている。そんなのはただの噂だ、全く信ぴょう性にかける。炭鉱夫たちは、ほら話だと笑い飛ばし誰もまともに取り合うことはなかった。
 ある時、鉱夫の一人がおかしな怪我をした。怪我をした彼は奇妙なことを言った。


「壁に松明をかけて採掘をしている途中だった。石を目掛けて振り下ろしたはずのツルハシが、いつのまにか自分に向いていた。仲間の誰かが自分のツルハシを取り上げたのだと思った。不思議に思いながら、返してもらおうと顔を上げた。そのとき目にしたのは宙に浮かぶツルハシだった。それは奇妙なことに自分から伸びた影の中にあった。火は右手側の壁に掛けてあるのに、影は左側ではなく、なぜか目の前に伸びていた。そうして、目の前のツルハシは、自分を目掛けて振り下ろされた。この怪我はその時にできた」


 彼は目の辺りに怪我をしていた。ツルハシは彼のまぶたをかすめていったという。彼は大怪我こそ免れたが、それからというもの、取り憑かれたようにその話しかしなくなった。あそこには影の化け物がいた。化け物が自分を襲ったのだ。
 鉱山では毒ガスにあたることもある。暗闇で長期間作業をしていることで精神を蝕まれる者もいる。皆はそういった理由で彼は気が触れたのだと思っていた。

 ある考古学者が、怪我をした彼が話す影の化け物に興味を持った。採掘の過程でまれに歴史的価値のあるものが出土することがあり、考古学者は出土品を目当てに滞在していた。学者は古めかしい恰好を好んでしており、この辺りでは見慣れない宵の闇のような深い青色の髪をしていた。見た目こそ住人達から浮いていたが、学者という珍しい立場と柔らかい物腰から、この辺りの住人に受け入れられていた。影の化け物に興味を持った学者は、その正体を探り始めた。

 学者は化け物を探しに坑内へ一人で入っていった。しかし、何日経っても彼が戻ってくることはなかった。
 
 数年後、この鉱山は閉鎖されることとなる。
 閉山の理由は、同様の不審な怪我や死亡事故が多発したためである。人々はきまって目に傷を負い、それが致命傷となって命を落とした者もいた。人々は「影の化け物に襲われた」「あの学者の幽霊を見た」などと話すが、その傷は不思議なことに、決して他者から受けたようには見えない。まるで自ら目をえぐりとったように見えるのである。作業員全員が怪我をしたわけではない、当然無傷だった者もいた。無傷だった彼らは皆、鉱石の欠片を持っていた。鉱夫たちの間でのみ伝わっていた影の化け物の話は、次第に地区へ広がっていき、のちにこの街で「鉱石のお守り」と「目をさらう化け物」の伝承となって根付いていった。

 その影の化け物は、「デュハウント」と呼ばれるようになる。


◇◇◇

     
「――どう? 読み終わった?」

 半分まで読み終えたとき、リリヤさんが私に声を掛けた。正直に言うと、難しい言葉が多くてあまり内容が分からなかった。いまよりずっと昔の話で、デュハウントについて書かれているのだろうということは少しわかった。リリヤさんにそう伝えると、「大体そんなところよ、大丈夫」と言った。

「これには続きがあって、もう少し先まで本当は読んでほしかったけれど、それは私が説明するわ。デュハウントが取り憑いているのは、この街自体と、この街に住む人間。きっと何十年か、もしかしたら百年よりも長く、デュハウントはこの街にずっといる。動かないんじゃなくて、多分動けないのよ。本体はこの街自身なんだとおもう。だからね、事情は簡単よ。私たちが助かるには街を壊すしかないの。スイちゃんにも手伝ってほしい」
「どうして、そんなことをするの? ここには住んでいる人だってたくさんいる。街の外からきている私にも、みんな優しい人ばかりなのに」
「あれはもう人なんかじゃないわ。この街にいるのは誰一人、人間じゃない。無事でいるのは私たちくらいよ。そう、スイちゃんはこの街の外に住んでいるのね。もし家族を助けたいのなら、その日が来るまでにこの近くから離れるよう伝えておくことね」

 街を壊すと言った。きっとそれは簡単なことではないと思う。けれど、リリヤさんは真剣だった。リリヤさんが言うには、デュハウントに対抗する手段は限られる。考えられる方法は二つ。一つは、デュハウントが取り憑くための人間が全ていなくなること。例えば、病気の類で街の人が死んでしまったなら、その条件を果たせるかもしれない。つまり、この街から出られない全ての住人を、街から出さずに全て消し去らねばならないということだ。もう一つは、デュハウントが存在するためのこの街自体を壊してしまうこと。あれはこの街の影なのだという。影も形もなくなるほどに壊すことが出来たなら、もうあの影におびえることもなくなるのだろう。
 それを踏まえて彼女は言った。

「そう、天災までとはいかなくても、大事故を起こしてしまえばいいの。例えば、ほら。全部を燃やし尽くしてしまうとか。もう、燃料や火薬なんかは手配したわ。そうね、始めるなら、ここからがいいかもしれない。この広場は街の真ん中だから、きっときれいに火が回るはずだわ」


◇◇◇


 きっと、断ることもできたと思う。あの日のリリヤさんの横顔はとてもさみしそうだった。リリヤさんは私よりも年上だから、私よりもずっと、この街に思い出があるはずだ。いつもおばあさんと一緒に来ていたお店、リリヤさんと初めて会ったお花屋さん、初めて通った教室はルド先生のおうちだった。教室が初めて休みになったあの日から、ずっとルド先生に会えていない。みんなは引っ越したと言うけれど、ルド先生の部屋で拾った半分に欠けたお守りの石は、ルド先生の身に何かが起きたと言っているようだった。
 私は、目の前で灰になっていく皆の思い出を、ただ黙って目に焼き付けることしかできなかった。
 街が燃えている。人が消えていく。人だったものが消えていく。街が燃えていくのと一緒に、街の人たちは真っ黒な影になって、ぼろぼろと崩れていった。その影の形は、私が小さい頃にみた、あの影の化け物と同じ形をしていた。私が燃やした。私が大好きだった街。でも、これでみんなが救われるんだ。みんなで燃える街を見ている。ヘンリク先生も、リニュスくんも一緒にいる。リリヤさんは泣きそうな顔で街を見ていた。私も少し悲しくなった。俯いて地面を見ると、街の火に照らされた私たちの影が伸びていた。その影は、燃えていった街の人たちと同じ形をしていた。

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