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第3章 7話(前編)

 

 

 

 

 

「ああ、確かにデタラメだが、とてもいい案だと思うよ」


 エトワルトはリリヤの話を聞いて、よくもこんなにも突飛なことを思いついたものだと言って感心していた。賞賛されたリリヤは喜びもせず、かといって落ち込みもせず、黙り込んで立ちつくしている。

「君もそう思うだろう、ヘンリク」

 優しい声音でエトワルトが投げかける。
 ボクが返事を迷っているとわかったのか、エトワルトはボクの方を見て顔をほころばせた。大丈夫だと言って微笑んだ彼は、どうやらボクの不安を見透かしている。
 ここはかつて教室として使われていた部屋だった。住人の姿が消え、勉強を教える教室が中止になっている今、集合して話し合うには適している。街の子供たちをあつめて教鞭を執っていたのが遠い昔のことのように感じられる。広い部屋には必要最低限のものしか用意されていない。大きな机、椅子、黒板、簡単な棚。子供なら十人は掛けられそうな大きい机、その正面の壁には黒板が埋め込まれている。ボクたちは黒板の前の大きなテーブルを囲み、影の化け物に対抗するための策を練っていた。参加していたのは、エトワルト、リリヤ、スイ、リニュス、レーネの五人とボク、合わせて六人。一人ひとりが持ち寄った案を発表しあい、互いに意見を交換した。開始したのは今から二時間ほど前、各々が一人ずつ順に発表をし、六人目のリリヤがいま発表を終えた。
 ふと周りを見渡すと、不安そうな顔をする二人――スイとリニュスの二人の顔が目に入った。
 スイはまだ十二歳だ。まだ幼さの残る彼女は、家族の元で過ごしているのが本来の正しい姿だろう。恩師を失ったばかりだというのに、このままでは大切な家族も失うかもしれないと知ってしまった。彼女の不安は測りかねない。
 心優しいリニュスは、自分より歳下のリリヤがこの選択をしなければならなかったことに心を痛めているようだった。彼女にも大切な人がいたのを知っている。皆この街に大切な思い出があるのを知っている。
 選ぶ道の先にあるものを、ちっぽけな人間が全て背負うには重すぎる。

 リリヤが提案したのは「街を壊す」ことだった。
 普通なら思い付いても実行しようとは思わない。途方もないくらい馬鹿げた話で、でたらめで、それでいて実現は難しい。しかし、彼女には実行までの具体的な道筋が見えていた。必要な物品を揃える手建てがある、準備は既に済んでいると彼女は言った。
 取り憑いた影の化け物ごと街を壊す。取り憑く先を失えば、化け物になすすべはない。これは、彼女が見つけた影の化け物・デュハウントにまつわる手記と、彼女やボクたちの経験から導き出した見解だ。

 あの化け物が次にいつ襲い掛かってくるかわからない。一刻の猶予もない今、リリヤの案に縋るしかない。
 この街に住む人間はデュハウントに取り憑かれている。一度でも取り憑かれた人間は助かる見込みがない。それはボクたちも同じだ。ボクたちは近い将来、街の住民同様に影に飲み込まれ化け物と化す。
 その時が来るのは明日なのか、一週間後なのかも分からない。そうなる前に、被害が広がる前に、この街を壊すべきだ。
 リリヤの提案の通り「街を壊す」のは、ただ壁を崩したり道を使えなくしたりする程度ではない。建物を倒し、街自体が形を保てなくなるほど破壊し、見る影もないほど焼き尽くす。陽があたっても影ひとつできないような更地に還すのだ。街を燃やすには、奴らが忌避する鉱石を燃した火を用いる予定だ。その火を使えば、街に取り憑いた影ごと全て灰に帰すことができる。依代がなくなった化け物は消える。かつて炭鉱で栄えた名残で街の近くには鉄道の路線がある。もし線路を手繰り影の化け物が拡がってしまうことがあれば、被害が拡大するかもしれない。僕たちが逃げ延びた後、万が一にも被害が広がらないように周囲の橋を落とし線路を分断する。そうすれば、街の残骸からは抜け出せない上に、街へ足を踏み入れようとする者も居なくなるだろう。新たな土地へ行ってからのことは、そのときに考えればいい。家や職をみつけ、それぞれが気に入った土地で新しい生活を始めるのだ。もう帰る場所がなくとも、きっとうまくやっていける。

 陽が出ている間、街の中にはボクたちしかいない。
 数ヶ月前までは、昼間は人が溢れていて活気があった。行きつけの店の店主は愛想よく軽口を飛ばすし、駆けて遊ぶ子供たちは元気よく挨拶をしてくれた。今では、そんな光景が嘘だったかのように静まり返っている。数週間前から、街の往来は最近まばらになっていた。最後に見たボクら以外の住人は、誰一人として言葉を発しなかった。すれ違うと不気味なほどに愛想のいい笑顔をむけ、無言でじっと見つめてくる。スイはその笑顔を怖がっていた。他者の機微に敏感な子供でなくとも、あの笑顔には薄気味悪さを覚える。エトワルトは、街にいる影たちの数が増えている気がすると言っていた。街にいる人々の数が減り、影の数が増えているのだとしたら――。今では、無人の街と化している。皆、どこかへ消えてしまった。知人も友人も消えた。それは、スイやリニュスの家族も例外ではなかった。
 街には以前の面影はもうない。ここにあるのは空虚な姿の街だけだ。
 リニュスは彼なりに割り切ったのか、彼の家に戻って過ごしていた。しかし、スイは僕のそばを離れなくなってしまった。恩師だけでなく家族も失った。少女の悲しみは計り知れない。
 実行の二週間前、スイをリリヤに預け、ボクとレーネ、リニュスの三人は、誰も居なくなった建物や路地にリリヤが用意した燃料を詰めた瓶と爆薬を設置した。街を燃やす火には鉱石をくべる必要があるとリリヤが言うので、ボクは鉱石のお守りを売っていた店から残りの鉱石を全て買い集めた。誰もいないのだから、代金を払う必要もないでしょうに、ヘンリク“先生”は本当に真面目なのね。呆れたように言うリリヤは、包帯の緩んだ指先で石を数えていた。

 街を壊せば、依代がなくなった化け物は消える。
 もう戻ることはできない。今さら辞めるべきではない。思い出だとか感傷だとか、そんなものに浸る猶予はない。懐かしいあの丘も、彼女が暮らしていた部屋も、全て手放す時が来たのだ。たとえ、影の化け物になってしまったかつての街の住人を自分の手で殺すことになったとしても。僕が化け物になってしまっても、きっと残った誰かが違うことなく殺してくれるはずだ。

 決行当日の昼過ぎ、街の中央にある広場に僕たちは集まった。空は高く澄み渡り、涼しい風が静かに吹き抜けていく。
 ボクたちはこれから、生まれ育った街を壊す。
 鉱石を燃した火を持ち、それぞれ定めた目的地に向かい、到着し次第ポイントに火をつける。街を出た後は、橋を渡った先にある廃線沿いの崩れた鉄塔の下で落ち合う予定だ。
 万一に備えて各自武器を携えていこうと言うと、リニュスはそれを嫌がった。リニュスは教室に通い始めた頃からずっと剣技を習う授業にも出ず、剣を持つこと自体を避けていた。だが、この先丸腰では危険すぎる。ついこの間、彼を狙って人の形を模したあの化け物が現れたばかりなのだ。エトワルトとレーネも一緒にリニュスを説得してくれた。ついには折れた彼は、短剣を一本持つことになった。

 目に映る火に冷たさを感じた。
 大袈裟かもしれないが、死地に赴く戦士というのは、こんな気持ちだったのだろう。いや、彼らの方が幸せかもしれない。彼らには戻る場所がある。
 僕は、弾けて音を鳴らす火を黙ったまま見ていた。

「これを持って」

 リリヤに渡されたのは目の前の火を分けた松明だ。鉱石のお守りを燃したこの火は影の化け物に対抗できるという。影と同化しかけているらしいエトワルトも、この火に近付くのを避けているように見えた。

「この火を街に放てば全てが終わる。火をつけ終えたら、街のはずれにある廃線の鉄塔跡で落ち合いましょう」

 木箱の上に置いた街の地図を見ながら、皆で経路の最終確認をした。街の中心にあるこの広場から、皆それぞれ別方向に向かう。最終目的地は街の東にある鉄塔だ。
 街の北側にはボクとスイが向かう。北側に行きたいと志願したのはスイ本人だった。教え子であるスイを危険にさらすわけにはいかないため、ボクが付き添うことにした。街の西側はレーネ、リリヤは中央広間にリニュスと残る。ボクとスイ、レーネが中央で待つリリヤとリニュスに合流したあと、彼らは四人で東側へ向かう。化け物に狙われているリニュスを守るには、腕の立つレーネがそばにいる方が安心だ。住宅が密集していて暗い道が多い南側はエトワルトが向かう。影の化け物が見える彼には、少しでも多く化け物たちを巻きこめる位置がわかるらしい。ボクはエトワルトを迎えに行き、南東側を通って東へ向かう。全員が街を出たのを確認してから、リニュスが東側で火をつける。橋の先で全員が合流し、最後に橋に仕掛けた爆薬で橋を落とす。
 全員で街を出た後は、歩いて次の街へ向かうことになる。日が暮れていれば、どこか手ごろな場所をみつけて野宿をする予定だ。

「なあ、もし途中で奴らに会ってしまったら、どうすればいいんだ?」

 震える声でリニュスは訊ねた。リニュスの目をじっとみつめたリリヤは短剣を取り出した。

「いい? 名前を呼ばれたあとの奴らは、実態のないただの影じゃなくなる。つまり、存在する物体になるってこと。だから――」

 彼女は右手を振り下ろす。ボクらが囲んでいた、地図が乗せられた木箱にナイフが突き刺さった。

「この手で殺すしかないわ」

 リニュスは固唾を飲んでリリヤを見ていた。リリヤは全く気にしていない素振りで、ナイフを抜いて鞘に戻す。

「また後で会いましょう」

 リリヤの言葉を合図にボクらは別れ、それぞれの目的地へ向かった。

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