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第3章 7話​(後編)

 

 

 

 

 

 ボクはスイと街の北側にある目的へ向かう。

「ねえ、ヘンリク先生」

 これから行く道をまっすぐ見ながら、スイが口を開いた。

「私ね、この街が好きなんだ」

 ボクの右手で松明が燃えている。彼女がボクに返してほしい言葉がなんとなく分かった。彼女が求めるように、大丈夫だとなだめるのも、怖くないと安心させようとするのも、なぜか相応しくない気がした。

「スイ……ボクもこの街が好きですよ」

 臆病なボクらしい返事だ。スイはボクの返事を聞いて、振り返って微笑んだ。ボクが微笑み返すと、スイは前に向き直って歩いていった。

「私、この道知ってるよ」
「スイはこの辺りに来たことがあるのですか?」
「うん。街の歴史を教わった時に、みんなで歩いたの。この道はルド先生が――」

 言葉に詰まったスイは歩幅が小さくなった。立ち止まる彼女に声を掛けた。彼女は続く道の遠くを眺めたままボクに言った。

「ううん、なんでもない」

 静かに静まり返った住宅の隙間には、ボクらの足音だけが響いていた。
 スイと時折話しながら歩いていたら、いつのまにか目的地に辿り着いていた。目標の木箱と導火線を確認する。松明を近づけようとしたところ、スイがボクの袖の端を引いた。

「――ねえ、ヘンリク先生。それ私がやってもいい?」

 真剣な表情をするスイをみて、ボクは断れなかった。ボクは頷いて、彼女に松明を渡した。
 スイは建物のわきにある木箱に火をつけた。木箱の中には燃えやすい素材が詰まっている。木箱からつながる導火線の先には、リリヤが用意した爆薬と燃料が設置されている。火をつけたボクらは、爆発に備えてその場を離れた。ボクらは物陰に隠れた。スイに身体を丸めて耳を塞ぐよう伝えた。彼女は小さくうずくまる。その様子を確認してから、ボクも身体を丸めた。
 数分後、爆音が響き、空気と地面が振動で震えた。
 破片の飛来もなく、どうやらここはまだ安全のようだ。これからスイを連れ、中央広場に向かう。スイをレーネたちに預けてから、南側にいるエトワルトを迎えに行く。ボクはスイがいる方に振り返った。

「思ったより大きな音でしたね。スイは大丈夫でしたか?」

 振り返った先には誰もいなかった。 
 揺らめく火は風に煽られながら広がって、周囲は煙をあげて燃えていく。火が高くなっていくにつれ、焦りと恐怖がボクの中で大きくなっていくのを感じた。

「スイ! どこにいるのですか! 返事をしてください、スイ!」

 炎の勢いが増していく。用意した導火線の通りに周囲の建物へ炎が広がった。建物にはできる限り爆薬を設置してある。すべてを瓦礫にするために、僕らが設置したものだ。
 スイが行きそうな場所はどこか。考えようにも迫る火の手に思考が鈍る。あの子とここに向かうまでのことを思い出せ。いくつも懐かしい話をした。春と秋にある祭りのこと、リニュスがスイと同じくらいの歳だった頃のこと、スイが大切にしているルートヘル先生との思い出。
 ――そうか、あの子はルートヘルの家に向かったのか。
 スイが街の北側に行きたいと言い出した理由が今わかった。この場所はルートヘルの家に近い。たしか、彼の家はボクたちが火をつけた場所から二軒しか離れていないはずだ。炎の勢いは増し続ける。このままでは、スイが向かったと思われるルートヘルの家に火の手が届くのも時間の問題だ。やっとルートヘルの家の前にたどり着いた。

「スイ! ここに居るのですか? 返事をしてください、スイ!」

 扉に手を掛けた時、何かが軋む音がした。隣にある背の高い家屋が倒壊しかけている。大きくしなった壁が、燃え盛る柱と共に板を裂く音を立てながら、黒い影を伴ってこちらに向かって倒れてきた。倒れてきた隣の家屋は、屋根を割り建物を押しつぶす。燃えた材木が激しくぶつかり合う音に混じって、一瞬、悲鳴のような声が聞こえた。
 そこからは自分が何をしたのかあまり記憶にない。気が付いた時には、燃え盛る家屋の中で材木の下敷きになった少女の姿を目にしていた。夢中で助け出した彼女の銀色の髪は、鮮やかな赤に染まっていた。腕には大きな布切れを大切そうに抱え、固く目を閉じている。スイが胸に抱いていたのは、ルートヘルがよく羽織っていたコートだった。スイをルートヘルのコートで包む。ボクらは彼の家を後にした。

 あの時、スイから目を離していなければ。後悔ばかりが浮かんでくる。
 街が燃えている。ボクらの街が壊れていく。ボクらが生まれ育った街がなくなっていく。今もうまく思い出せないが、アンニカとの思い出の場所はこの街にあったはずだ。今日で全てが失くなる。今日に至るまで、誰かの生活も、思いも、愛しい人も、影が住人ごと消し去った。その影を消すために、ボクらが街を壊している。誰かが過ごした場所を、大切にしていたものを、ボクたちが放った火が全てを奪っていく。建物は周囲を巻き込みながら燃え崩れる。ルートヘルの家も、あんな風に崩れていた。崩れた部屋に覆い被さる材木。一瞬の出来事だ。逃げる隙などなかった。きっと、怖かっただろう。痛かっただろう。たった一人で思い出の場所へ向かったスイは、何を思っていたのだろう。――それを訊くことはもう叶わない。

 中央広間に着くと、レーネとリリヤ、リニュスの三人が待っていた。スイを彼らに預け、彼らは街の東へ向かう。ボクは南へ向かってエトワルトと合流する予定だ。
 抱えられるスイを見たレーネがボクに問う。

「化け物に会ったのか?」
「いいえ。崩れた建物に……」

 レーネは視線を落とした。ボクの腕の中にいる彼女はもう動かない。スイをレーネに預けようとした時、リニュスがそれを遮った。

「俺が運ぶ」

 リニュスは手に持っていた松明をリリヤに渡した。ボクの方へ手を伸ばし、スイを抱えた。

「何かあった時、レーネさんが剣をとれる方がいいでしょ。リリヤには難しいだろうし、俺が運ぶよ」

 スイを受け取ると、リニュスは何も言わず静かに抱きしめた。
 誰もボクを責めなかった。ボクがついていたにも関わらず、彼女を危険な目に遭わせてしまった。取り返しのつかない結果が目の前にある。ひどく責めてくれたならと都合のいいことを考えてしまう。

「私は予定通り、リリヤたちを連れて街の東へ向かう。ヘンリク、あんたはエトワルトのところに行くんだろう。それなら新しい松明を持っていった方がいい。きっと街を出る頃には暗くなっているだろうから」

 そう言ったあと、レーネは新しい松明を用意してくれた。受け取ろうとのばした手が震え視界が歪む。

「ヘンリク」

 冷たく落ち着いた声が僕の名を呼ぶ。その声の主はリリヤだった。ハッとして前を向くと、三人がボクの方をじっと見ていた。顔をしかめたリリヤは、ぐっと手のひらを握りこんでいた。

「まだ終わりじゃないわ」

 リリヤの冷たい視線がボクを貫く。
 そうだ。ボクたちは街を出るんだ。早くエトワルトを迎えに行こう。
 遠く後ろから、建物が崩れていく音が聞こえる。ボクは松明を受け取って彼女たちと別れた。

 エトワルトは街の南側にいる。両目を失明したエトワルトは、影の化け物や街の影が見えても、今の街の姿は見えていない。彼の元へ急ぐ。
 彼の元に着いた頃には、日が落ち始めていた。燃える家々を前に、座り込む彼がいた。彼の赤い髪が焔で明るく照らされている。何かを呟く彼の後ろ姿は寂しそうに見えた。

「……助けてやれなくてごめん。オレも……もうすぐそこに行くよ。オレは街から出られない。キミたちと同じだ……」

 足音に気がついて振り返った彼は、ボクを見て微笑んだ。いつもの笑顔だった。僕の名前を呼んだ。ボクは手を伸ばし、彼の手を取った。

「エトワルト、行きましょう」
「ああ。行こう」

 立ち上がらせた彼はひどくふらついていた。立っているのがやっとで、身体中に汗が滲んでいる。

「すまない。もう、うまく歩けそうにない……」
「ボクの肩につかまってください。大丈夫ですよ、ゆっくり行きましょう」

 火の手に追いつかれないよう、いまのエトワルトにできる全力の速さでボクらは進む。燃え盛る街並みを横目に通り過ぎる。

「あの火が怖いんだ。目の前で影が消えていくのを見た。本当に消えてしまうんだな」

 火薬が爆ぜて大きな建物が轟音と共に崩れていった。思わず駆け出しそうになった。あの場に向かわなければ。まだ間に合うかもしれない、瓦礫に挟まって消えゆくあの少女が想起される。倒壊する音に混じって、小さな悲鳴が聞こえた気がした。崩壊する家屋に向かおうとするボクを止めたのはエトワルトだった。進行方向を変えようとしたボクに、つま先が引き摺られたエトワルトが言う。

「ヘンリク? どこへ行こうとしているんだ」
「スイが、スイがあの建物の下に……」
「スイ?」

 ボクはここに来るまでにあったことをエトワルトに話した。

「やはり、そうか。一度でも影の化け物に襲われた経験のある人間は――」

 彼はその先を口にしなかった。
 エトワルトを連れて街の東側へ向かう。立ち上がるので精一杯だと言っていた彼だったが、肩にかかる重さは全く気にならないほどだった。

 街の東にある大きな宿屋の前、そこにはリニュスが一人で待っていた。レーネとリリヤはスイを連れて先に目的地へ向かったのだろう。左手に松明を持った彼は、不安そうにボクらを見つめる。日が沈み始めている。空が街と同じ色に燃えていた。

「エトワルト……!」

 リニュスの声には焦りがまじる。駆け寄ろうとする足を音を聞いて、エトワルトは手を前にかざした。それを見たリニュスは足を止め、視線を足元へと落とす。伏せた顔を右手で覆ったきり、じっと止まっていた。

「リニュスが待っています。あと少しですよ、エトワルト」

 肩から落ちる彼に目を向ける。エトワルトの輪郭が溶けていた。半分が影に飲み込まれていた。

「エトワルト! 影が!」
「……ああ、オレはこの先には行けないらしい」

 リニュスの足元にエトワルトを下ろす。倒したインク瓶の黒色が紙に染み込むように、影がエトワルトを覆っていく。

「リ、ニュス……リリヤとレーネは……?」

 エトワルトの問いに、リニュスは答えようとした。地面に倒れ込むエトワルトのそばにボクは屈んだ。リニュスは顔こそこちらへ向けているが、視線は遠くを見ている。急いた呼吸に言葉が途切れる。

「――ま、街を出る瞬間、黒い何かが、下から伸びてきて……」

 上げた顔を燃える街に向ける。燃える炎を青い瞳に映しながら、リニュスははっきりと言った。

「みんな、俺の目の前で消えた」

 黒く染ったエトワルトは、ただ一言「すまない」とだけ口にし、黒い塊となって地面へと沈んでいった。エトワルトだったものは、地面の上で黒い染みになった。さっきまでそこに伏せていた彼と同程度の大きさだ。黒い染みはじわじわと広がっていく。ボクらの足元には、周囲の炎に照らされたボクらの影がある。広がる黒色はボクらの影に触れた。リニュスの影と合わさってより大きく拡がっていく。

「ヘンリク、ここから離れて!」

 不自然に黒く淀んだ影から現れたのは、人間の頭部大の黒い半球。影から突き出して行くほどに、暗い青に染っていく。長いローブのようなものに身を包むそれは、水の中から立ち上がるようにして影から発生した。それは、いつか見た黒髪の背の高い男だった。
 威圧的な程に背の高いその男は、影と似た深く暗い色の髪をしている。古めかしい青の衣装に身を包んでいる。あの青はこの地域で古くから伝わる伝統的な衣装のひとつのはずだ。現代では焼失したと聞く、あの――。
 瞼を閉じた男の顔に表情はない。燃える街を背にし、僕らへ真っ直ぐ顔を向ける。重々しく開かれた瞼の隙間からは、闇色の空洞が見えた。

「随分とひどいことをしてくれた」

 その姿には覚えがあった。
 あの日、リニュスを襲った影を従えていた男だ。おびただしい数の瞳を影の中に携えて、リニュスの瞳に手を伸ばそうとしていた。

「青い目の子、君の目で最後だ。これでようやく集め終えることができる。私に目を捧げていないのは君だけだ。君の目があれば、私は完璧な存在に至る」

 リニュスの瞳を奴の手に渡らせてはならない。
 恐怖からリニュスは息を浅くして体を強ばらせている。今この場でリニュスを守れるのは僕しかいない。

「リニュスくん! 逃げなさい!」

 ボクはリニュスの背を叩いた。彼は固まったままの体で、ようやく一歩後ろに下がった。

「早く!」

 ボクの声を聞いて、リニュスは走り出す。街の出口はすぐそこだ。
 リニュスがボクから離れ始めた瞬間、ボクらの目の前にあった巨大な地面の黒い染みが分裂し、小さなもやが僕の前に現れた。次第に形を思い出すようにモヤが収束していくと、目の前にあの化け物が現れた。胴からのびた長くうねる腕が地面に垂れ下がっている。消えかかった頭部をゆらゆらともたげ、じっとこちらを見ているようだった。影は襲ってくる気配がない。僕が影と見つめ合っている間も家屋は燃えて崩れていく。誰かがつけた火がこちらまで伸びてきているのだろう。あっという間に火の手が迫り、辺りはごうごうと燃えていた。
 剣はいつでも抜ける。

「痛ッ……!」

 叫んだのはリニュスだった。背を向けたリニュスに向けて、あの男が手を掲げている。リニュスと男の間は倒した扉をふたつ並べた程度の距離があった。到底手が届くはずのない距離だった。手を伸ばした男の影は、炎を背にし長く伸びていた。伸びた影の端から、黒い影の触手が伸びる。鋭利に尖った影の先は、リニュスの左下腿を貫いた。

 ボクは剣を取ろうと右手を持ち手に掛ける。
 ――しかし、そこに剣はなかった。
 ボクの剣を握っていたのは、ボクの目の前にいた小さな影だった。影はボクの足元からまっすぐ伸びている。あれはボクの影なのか? 考える間もなく痛みが体を穿った。腹に剣が突き刺さっている。血が溢れてシャツが赤く染まっていく。剣がささっている箇所は熱源でも埋まっているかのように熱い。まるで自分にも火がついているようだ。刀身と伝う血の両方は燃える火を眩しく反射させている。ボクが膝をつくと、影は剣にまきつけた腕を自分の体に引き戻した。突き刺さった剣は、ネジのように回転しながらボクの身体から外れていった。栓を抜いたようにごぽごぽと血が溢れる。
 頭から地面へ倒れこんだボクを、きっと影は満足そうに見下ろしていることだろう。見えるのは影の足元だけ。カランと剣が落ちる音がした。火はずっと強くなって、ボクらをかき消そうとしていた。立ち上がることも、顔を上げることもかなわない。

 リニュスを逃がさなければ。


 腹から血が溢れる。腕に力を込めて起き上がる。体を支えるだけでやっとだ。裂けた腹から内容物が溢れそうだ。立ち上がることがこんなに難しいと思わなかった。血に濡れた服がずっしりと重くまとわりつく。上半身を起こすことができた。あとは足を前に抜いて膝を立てればいい。

 目を奪われて以来、ボクには驚異的な治癒力があった。リニュスの元へ向かわねば。痛みを残して傷が塞がっていく。しかし、傷が癒えていくのと同時に、繋がる足先から影が侵食してきた。これは、エトワルトが影に飲み込まれていった様子と似ている。

 もう後がない。
 そう悟ると同時にボクは理解した。
 影に襲われた過去のあるボクらが街から出ることは叶わない。ただ一人を覗いて。

 あの男は言った。
 “君の目で最後だ”――リニュスは影に襲われた経験がないのだ。リニュスなら、街を出ることができる。
 ボクは出発前にリリヤが話していたことを思い出した。名前を呼ばれたあとの奴らは実態を得る。ただの影ではなくなるのだ。何としても、影をここで消すしかない。リニュスを逃ために、最善を尽くそう。

「デュハウント!」

 その名を口にする。僕のそばにいた影と、リニュスの前に立ちはだかった男が僕の方を見た。
 隙をつき、ボクは剣を拾う。それに気が付いたリニュスは、取り出した短剣を構えた。
 その瞬間、リニュスの考えを理解してしまった。彼も似た考えなのだ。リニュスは、ボクを逃がそうと、ボクと一緒に街を出ようとしている。決して剣を持ちたがらなかったリニュスが、血を滴らせながら目の前の驚異に立ち向かう。
 ボクが目の前にいる影に剣を突き刺すのと同時に、リニュスは両手で持ったナイフを目の前の男の胴に突き刺していた。

「お前だけが影(わたし)を受け入れなかった。お前だけが――」

 ボクから伸びた影は、形を保てなくなってぼろぼろと崩れていく。目の前に残ったのは煤のくずと、自分の血に濡れた剣だ。リニュスに向かう男も影と同じように崩れ始めていた。伸ばした指先から順に、黒く染まって崩れ落ちる。それはボクも同じだった。エトワルトと同じように、ボクの体も黒く染まっていく。ただ一つ異なるのは、影に染まった体は地面に沈むのではなく、目の前にいた影たちと同じように崩れて煤になっていくのだ。リニュスが掴んだボクの手は、乾いた砂の塊のようにほどけた。


 ようやく全てが終わった。最後に目にしたのは、夜の帳が落ちた空に舞い上がる火の粉だった。

 エトワルトが言い淀んだ先の言葉に思い当たるものがあった。――過去に一度でも影の化け物に襲われたことのある人間は、決して街からは出られない――レーネはそれを体験していた。リリヤもそれを知っていた。スイとエトワルトも、そしてボク自身も。


 黒い影は消えた。炎に包まれ崩れゆく街を捨て、彼は道の先を歩いていくのだろう。

 ボクらと共に闘った彼に、これから多くの幸がありますように。

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